2019年12月1日日曜日

語るべきストーリーを探して



自己紹介が苦手だ。自分が何者なのか自分でも分からないし、自分について他人に話すようなことなんて何もないと思える。それでいて状況によっては話し始めると、とめどもなく言葉が湧き出る。

それは日常的な場面においても同じだ。人と顔を合わせても、話すべきことが何も思い浮かばない。自分のなかを探っても、空白しかない。なのに話し始めると止まらなくなる。そんなだから、日常会話ができない。今のように何かに集中している時は特にそうだ。今は仕事と、そのために必要な日々の勉強、例えば関連する技術を調べたりとか、法律や判例を調べたりとか、ということに集中しているので、それ以外のことにまったく頭が向かない。だから仕事と無関係な日常会話を必要とする場面になると狼狽する。普通の人と接続できるようなチャンネルがまったく思い浮かばないからだ。

かといって仕事について他人に何かを語れるかというとそういうわけでもない。というのは、仕事に没頭しているときというのは、そのときそのときの問題を解決することに忙しく、問題が解決すると、その問題はあとにおいて次に進むので、一つのことについて語れるほどに詳しくなることはないからだ。

つまり、何かについて語れるためには反省的な作業が介在しなくてはならないということだ。自分の経験や知識をより大きな文脈の中において意味づけることが必要とされるのだ。目の前の問題と取り組むのに忙しい人にはそれができない。できないのではなく、本当はしたくないのかもしれない。少なくとも私は自分のなかにそういう欲求、つまり目の前のこと以外何も考えたくないという欲求、を感じる。特により大きな文脈のなかで自分を位置づけるという作業は大変なので関わりたくないと密かに思う。目の前のことだけに集中して、あとは何も考えたくない。それはそれで必要なことだろう。なぜなら、仕事を遂行するためには集中が必要だからだ。アインシュタインのような天才ではなくても、ただの凡人でも、集中してほかの事柄に関心を失うことはあるのだ。

その一方で、ストーリーを語れるようになることも必要だと思う。ストーリーを語るというのは、より大きな文脈のなかで自分を位置づけるということでもある。世界観と呼んでもいい。なぜそれが必要なのかというと、私たちは一人で生きているわけではないからだ。私たちは否が応でも他人との関わりのなかで生きている。というより、人との関わりのなかに産み落とされたと言ったほうがいいかもしれない。そうでなかったのであれば、あらゆる意味づけを拒否して「自分は自分である」と言って生きていけばよかっただろう。でも実際に私たちは常に人との関係において関係づけられている。そして、その関係づけによって人は私たちを理解し、受けいれる。だから、そのような関係性のなかで生きていくために、大きな文脈の中で自分を位置づけることが必要だし、それを語れることが必要だ。自分のためにも必要だし、関わりを持つ周囲の人たちのためにも必要だ。

そもそも今はなんの世界観も持っていないのだから、ゼロから作り上げるしかない。最初は稚拙なストーリーしかできないだろう。何度も壊して積み上げなくてはならないだろう。でもそれでいい。それしかないと思う。


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