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2020年8月8日土曜日

コンプレックスは難しい

 コンプレックスというのは厄介なものだ。そもそもわざわざコンプレックスを感じたいと思っている人なんて一人もいない。気にしたくないのに気づいたら捕らわれているというのがコンプレックスだ。その存在は頑張る動機になることもあるけれど、物事の見方をゆがめ、関係の崩壊やチャンスの喪失やトラブルの誘因となることの方がはるかに多い。コンプレックスが全くない人なんてどこにもいないだろう。かくいう私もこれまでずっとコンプレックスに支配されて生きてきたし、未だに乗り越えられずに葛藤を続けている。

 そもそもなぜコンプレックスについて考え始めたかというと、最近読んだ本の中でコンプレックスの固まりのような二人の人物と続けざまに遭遇したからだ。一人はほしおさなえの『活版印刷三日月堂』シリーズ中のエピソード「チケットと昆布巻き」に登場する竹野明夫という雑誌編集者。もう一人はノンフィクション作家、星野博美の『転がる香港に苔は生えない』に登場する著者の友人の香港男性、阿強(あきょん)。この二人の人生について考えたい。残念ながらこの記事を最後まで読んでもコンプレックスを乗り越える方法は書いていない。でも、少しは希望を感じられるようになるかもしれない。

2020年7月30日木曜日

免許を取ることと仕事を習得することの意外な関係




 私は運転ができる人をそれだけで文句なく尊敬する。性格や頭のよさや社会的地位とはいっさい関係なく、運転ができるというだけでヒーローのようにかっこよく見えてしまう。自分のできないことをできる大人に憧れる子どものように、私は運転ができる人に憧れる。

 断っておくが、私だって運転免許は持っている。オートマ限定と普通二輪を。一時はヤマハのセローというマイバイクさえ持っていた。ただし一般道限定だったが。今はバイクも車も持っていない完璧なペーパードライバー。そもそも免許を取ったのも大学の授業終了後、就職まで暇だったからというお気楽な理由からに過ぎない。

2020年7月22日水曜日

散歩する自由


私の育った家は厳しい家だった。小学生のころの門限は5時で少しでも遅れるとドアに鍵がかけられ、家に入れてもらえなかった。高校にあがってからも、10時には帰宅していないといけないので、部活の打ち上げなどでも帰宅時間が気になって楽しめなかった。目が悪くなるからテレビもなかった。私が中学生になってからやっと、弟がいじめられないようにテレビを購入したが、その後も一日きっちり2時間しか見られなかったし、見る内容もチェックされた。お笑いも駄目、ドラマも駄目。見ていいのは漫画ぐらいだった。そのおかげでテレビを見る習慣がなくなってしまったのだが、私にテレビを禁止した親が今では、テレビを見ない、芸能人を知らないと私を非難するのだから腹が立つ。私がこのように育ったのは誰のせいなのか少しは考えてほしい。

2020年6月11日木曜日

緊急事態宣言解除後に感じる、何者でもない自由

 
 緊急事態宣言が解除されて地域の図書館が再開したので週末に行ってきた。図書館に行くというだけでうきうきした。もともと図書館という場所が好きなのだ。同じように図書館の再開を待ちわびていた多くの人が来館していた。本を借りてすぐ帰る人もいたけれど、ベンチで本を読みふけっている人も机で勉強している人もいた。館のなかを安堵感が流れていた。

 通路をぬって本を探しながら、自分がほっとしているのが分かった。それはなつかしい場所に帰ってきたという気分であり、周囲の目から解放される安心感だった。緊急事態宣言が解除されたからとは関係なく、小さい頃から図書館は私にとってそのような場所だったのだ。図書館で私は何者でもない自分でいられる。誰からも見られないでいられるし、誰からも何も問われないでいられる。そこでは私が何を考えているか、何をしているか、年収はいくらか、人にどれだけ好かれているか、といったことは問われない。

2020年5月5日火曜日

神楽坂の思い出


毎日歩く道をなぞったら、固有の形が浮かび上がる。境界線に定められた閉じた図形が。それは私が地上に刻んだ刻印だ。上空から観察している高次生命体がいたら、その図柄の隠された意味を読み取るかもしれない。ナスカの地上絵やイギリスのストーンヘンジに匹敵するものとして。あるいは開拓時代のアメリカ政府が、その土地を私にくれるかもしれない。私の歩いた跡を境界線とする土地を。

神楽坂に住んでいた頃は毎日同じ道をたどり続けた。線の上に線を何重にも重ねることによって自らの足跡を深く刻みつけるかのように。

2020年5月3日日曜日

2020年春 私のゴールデンウィークの過ごし方


目が覚めると、もう明るい。寝坊をしたのかと焦るが、時計を見るとまだ6時だ。最近は日の出が早いため、起きるとすでに日が高くて損をした気分になる。でも6時ならまだ余裕だ。散歩してゆっくり朝食をとって8時には仕事を始められる。すっかり在宅勤務ペースが身についてきた。と思っていると、ふと何かが記憶のかたすみで動く。あら?今日仕事あったっけ?

「今日はゴールデンウィークです。仕事はありません」と声がつぶやく。

とはいえ、いつもと何が違うのかというと、とくに何も思い浮かばない。普段と変わらないごく普通の朝だ。大型連休に付随してしかるべき祭りのような楽しさはどこを探してもない。そもそも大型連休の気配すら感じられない。

2020年3月7日土曜日

見えそうで見えない――予感の時


何かが見えそうで見えない時というのがある。身のまわりのあらゆる出来事が、何かのメッセージを隠しているように感じながら、その意味がつかめないようなときだ。突き詰めていけば何か新しい扉が開きそうな予感がある。しかし、それはまだ漠然と輪郭のない状態で虚空に漂っており、確かなものとして手の中につかむことができない。

今の私はまさにそのような状態だ。(神がかり的だといえばいえるが、スピリチュアルのくくりに閉じ込めないでほしい。このような予感は誰しもが生きていく過程で感じるものなのだから。恋愛に至るあのときめきにも通じる感覚だ。)

しかし、私にこのような思いを抱かせるものの正体は何だろう。

2020年1月26日日曜日

場所と記憶(2020年2月1日更新)




最近、雨が降ったり、よほど疲れているのでない限り、週末の朝は川べりを散歩することにしている。ジョギングシューズを足になじませ、軽くストレッチをしてから、背中を伸ばして腕を振り上げ、勢いよくふみ出す。向かうのは駅と反対の方向。駅側を家の表側とすると、家の裏側に広がる裏庭のような地帯だ。住宅のあいだを抜け、化学会社の広いグランドの横を通って堤防を上って川に出る。


歩きながらポッドキャストを聴くことが多い。お気に入りはNYタイムズのThe Dailyと同じくNYタイムズのBook Review。もともと英語の練習のつもりで聞いていたところもあるけれど、話が面白いので、好んで聞く。ニュースというのは楽しいものではないけれど、国内の身の回りのニュースを聞くより海外のニュースを聞く方が距離をもって見られるので、狭さを感じないからというのもある。

2019年12月15日日曜日

勉強をすることは普通ではないこと

職場と家では流れる時間が違う。


夕方、電車が川を超えて都心を離れると、仕事は遠景に退く。商店街を通って自分のに急ぐ道のりは、仕事を脱ぎ捨て素の自分に戻る変身の時間だ。商店街を抜けると、広いキャンパスと団地からなる開けた空間にでる。そこが私の家への玄関だ。我が家に訪れた友人が指摘してくれたように、商店街を抜けて家に向かう道は、神殿に向かう表参道であり、家は私にとっての神殿だ。
反対に、朝、職場の自席に座ると、意識が仕事のモードに切り替わる。例え家では疲れて何もする気が起きないときでも、職場につくと体が動き始める。そこには自分を動かす適度な緊張感がある。
家で流れる時間は生活の時間だ。生活を成り立たせるためにこまごまとした用事がある。独身で一人で暮らしている時は、自分さえよければいいと思って放っておくことでも、結婚して家族を持つと放っておけなくなる。(「おけなくなる」のか「おかなくなる」のか議論の余地があるにせよ。)生活の形を維持するための努力に時間とエネルギーを費やすことになる。反対に、独身で一人暮らしをしているときは生活がないと言っていいかもしれない。

子どもがいればなおさら、家にいる時間は子どもを中心に回るようになる。子どもは常に注意を必要とするからだ。先日、第二子を出産した元同僚宅に遊びに行ったが、ゆっくり席に座って食事をできないほど子どもが生活の中心を占めていることがよく分かった。彼女の夫は私の上司でもあるのだが、子どもが生まれてからというもの、週末は子どもの世話で忙しくて、休日出勤をするにしても夜子どもが寝たあとにしか行けなくなったと言っていた。
そのような状態で、家に帰って自分のために勉強するなんてとても無理だろうし、普通はそんなこと考えもしないだろう。それでも勉強したいと思うのは普通ではないことなのだ。
子どもができて自分の時間がなくなることは大変なことではあるけれど、そこには充実感がある。何より満たさなければならない空白の時間を埋めてもらえる。自分の存在意義が外から明確な形で与えられる。
実際、子どもを育てることというのは何にも勝る大きな仕事であるとともに、それまでの経歴に関わらず誰でもできるという点で稀有な事柄だ。(ここで、「誰でもできる」というのは、誰にでもできるほど簡単だと軽んじているのではない。それまでの経歴とは無関係にどのような人にもチャンスが与えられ、同じだけ大きな仕事を成し遂げることができる、ということだ。)子どもの出産という出来事は突然やってきて、その時点から人生を完全に変える力を持つ。
先に「自分の時間」と書いたけれど、自分の時間がありあまっているという自由な状態は一見楽しそうだけれど、実は扱い難いものだ。多くの場合、一人ぼっちの空白の時間がもし与えられたら、人はそこから逃げ出そうとする。一人ぼっちの空白の時間というのは、恐ろしいものなのだ。大学に通っていた時もその後も、勉強したいこと、しなくてはいけないことはたくさんあるのに、週末の自由な時間を目の前にすると、自分が世間から隔絶されているように感じて、不安が膨れ上がり、気がめいってやるべき勉強に集中することさえできなくなった。時間はあっても、自分で満たすしかないその空白が怖かった。いざ勉強を始めても、理解できない問題にぶつかると前進できないまま時間だけが過ぎ、無力感に襲われた。時間を無駄にしているのではないかという自己疑念と焦りが前面化した。時間を自分で満たすしかないということは、誰に求められているわけでもない、どこにも必要性はない、純粋に自分のために自分で選択するしかないということだ。そのようなときに何が必要かを決め、その決断を固守することは、そこになんの外部的な正当性もないため、難しい。

つまり、ニーズとは無関係に純粋に自分のために勉強することは、普通のことではなく、よほどの意思がない限り、不可能か、そうでなくても非常に難しい。それは世間的な時間から外れることだからだ。以前、弁理士試験の受験を後押ししてくれた師が社会人には純粋な勉強はできない、「親の元を離れる直前の年齢が純粋な勉強のできる唯一の貴重な時間」と述べているのを読んだときは納得できなかったけれど、自分が社会人として勉強してみて、彼の言葉のもつ意味を理解することができた

しかし、「純粋な勉強」ということにこだわることをやめたとき、今の環境の方が私にとって勉強しやすい。なぜなら、より具体的で明確な課題が与えられているからだ。実際「化学」という抽象的な概念のもと、「化学」とは何かを理解しようとして各教科を勉強していたころは、目標が漠然とし過ぎていて何を勉強したらいいか分からなかったし、それらの科目がどうつながるのか、どのようにもっと大きな絵に収まるのかが全く見えてこないことへのフラストレーションを抱えていた。しかし、いざ仕事について個々の案件をアサインされると、それぞれ現在研究され商業化されている具体的な技術なので、その技術を理解するために背景となる化学を勉強するという明確な目標ができはるかに勉強しやすくなったし、勉強することが楽しくなった

それでも仕事の時間外に自分のために勉強するということは自己中心にならないと難しいだろう。


前述の師は「校門と塀」という表現を好んで使う。学校は”校門と塀とに囲まれることによって<社会>――「在るものは在る、無いものは無い」としか言えない機能主義的な〈社旗〉――から隔離されているからこそ誰にでも開放されている”と。勉強をしようとするときに「塀」が必要であること、世間から隔絶される必要があるのは社会人も同じだ。私にとって大学通学はそのようなものだった。世の中の時間の流れから外れて真空のポケットの中にいた。それは時間から取り残されることでもあった。自分だけが家族や友達から異なる時間の流れの中に生きなければならなかった浦島太郎はこういう気持ちだったのだろうと思わせられるような体験だった。
しかし、それは大学に通わなくなった今も必要なことだ。例え仕事のための勉強であったとしても、仕事のペースに合わせて勉強することはできないのだから。仕事上のニーズは日々変化するから、どこかで自分を切り離して、かかとを土に食い込ませ、自分の穴を掘るしかない。それはトンネルを掘るような作業だ。
「歳を取って本を読んでいる人なんて、私は絶対に信じません」という師だけれど、最近出版された彼の本を読むと引用されている文献の多くは最近のもので、彼が継続的に本を読んでいることは明らかだ。一時はツイッターの論客として注目され、日々何十、何百というツイートしていた彼が急に静かになったとき、彼が死んでしまったかのような寂しさを感じたが、それは彼が行き場を失ったわけではなく、表に現れない時間を自らの勉強に費やしていたのだとも考えられる。
人を見て、この人はいつそんなに勉強をしたのだろうと思うことはあるけれど、ほかの人々がツイッターや社交に忙しくしている時間以外にどんな時間があるだろうか。人が勉強しているときというのは、他人に対して死んでいるときだと考えた方がいいのかもしれない。

関連記事:社会人として勉強することと生活https://petitreport.blogspot.com/2019/11/blog-post_9.html
勉強ーー社会的隔離の果てに見えたもの(人格OverDrive)

2019年12月1日日曜日

語るべきストーリーを探して



自己紹介が苦手だ。自分が何者なのか自分でも分からないし、自分について他人に話すようなことなんて何もないと思える。それでいて状況によっては話し始めると、とめどもなく言葉が湧き出る。

それは日常的な場面においても同じだ。人と顔を合わせても、話すべきことが何も思い浮かばない。自分のなかを探っても、空白しかない。なのに話し始めると止まらなくなる。そんなだから、日常会話ができない。今のように何かに集中している時は特にそうだ。今は仕事と、そのために必要な日々の勉強、例えば関連する技術を調べたりとか、法律や判例を調べたりとか、ということに集中しているので、それ以外のことにまったく頭が向かない。だから仕事と無関係な日常会話を必要とする場面になると狼狽する。普通の人と接続できるようなチャンネルがまったく思い浮かばないからだ。

かといって仕事について他人に何かを語れるかというとそういうわけでもない。というのは、仕事に没頭しているときというのは、そのときそのときの問題を解決することに忙しく、問題が解決すると、その問題はあとにおいて次に進むので、一つのことについて語れるほどに詳しくなることはないからだ。

つまり、何かについて語れるためには反省的な作業が介在しなくてはならないということだ。自分の経験や知識をより大きな文脈の中において意味づけることが必要とされるのだ。目の前の問題と取り組むのに忙しい人にはそれができない。できないのではなく、本当はしたくないのかもしれない。少なくとも私は自分のなかにそういう欲求、つまり目の前のこと以外何も考えたくないという欲求、を感じる。特により大きな文脈のなかで自分を位置づけるという作業は大変なので関わりたくないと密かに思う。目の前のことだけに集中して、あとは何も考えたくない。それはそれで必要なことだろう。なぜなら、仕事を遂行するためには集中が必要だからだ。アインシュタインのような天才ではなくても、ただの凡人でも、集中してほかの事柄に関心を失うことはあるのだ。

その一方で、ストーリーを語れるようになることも必要だと思う。ストーリーを語るというのは、より大きな文脈のなかで自分を位置づけるということでもある。世界観と呼んでもいい。なぜそれが必要なのかというと、私たちは一人で生きているわけではないからだ。私たちは否が応でも他人との関わりのなかで生きている。というより、人との関わりのなかに産み落とされたと言ったほうがいいかもしれない。そうでなかったのであれば、あらゆる意味づけを拒否して「自分は自分である」と言って生きていけばよかっただろう。でも実際に私たちは常に人との関係において関係づけられている。そして、その関係づけによって人は私たちを理解し、受けいれる。だから、そのような関係性のなかで生きていくために、大きな文脈の中で自分を位置づけることが必要だし、それを語れることが必要だ。自分のためにも必要だし、関わりを持つ周囲の人たちのためにも必要だ。

そもそも今はなんの世界観も持っていないのだから、ゼロから作り上げるしかない。最初は稚拙なストーリーしかできないだろう。何度も壊して積み上げなくてはならないだろう。でもそれでいい。それしかないと思う。


2019年11月22日金曜日

内と外〜アイデンティティは何によって決まるのか


めっり冷えてきた。朝、家のぬくもりを後にして夜明けの町に踏み出すと、空気の冷たさに身が引き締まる。この数日は手袋があったほうがいいと思うほどでさえあった。いまや季節の感覚は狂い果てたけれど、その分毎日の気温の変化を意識するようになった。そして知った。気温はある日突然変わるのだということを。ある日突然<涼しい>から<肌寒い>になり、手袋が必要な寒さとなる。そして、気がついたら木々は紅葉を始めていた。

もう秋だ。

私にとっての秋は、ニューイングランドの秋だ。コネチカット川を抱く谷間が紅葉で埋め尽くされる風景の、眼を見張るような美しさだ。キャンパスを歩いていても突き抜けるような青空に映る木々の鮮やかな彩りが目に染みた。自然界がその輝きを増したようだった。みな、長く厳しい冬に備えて最後の陽光を楽しみ、力を蓄えた。来るべき冬の存在によって、秋の輝きはより強烈に放射された。

ニューイングランドの秋から冬へかけた季節を考えると、ピルグリムの父祖たち(pilgrim forefathers)を思わずにはいられない。自由を求めて新大陸にたどりついた彼らが、長い冬を生き延び、開墾して種をまき、収穫を得た秋を。彼らにとっての初めての感謝祭を。「新大陸」という呼び方自体の問題を認識しつつも、自由を求めて未知の世界に飛び出した彼らに自分を重ねずにはいられない。それはまだ幼い時に現地の小学校で学んだ米国の建国史が、私をその国の一部であるかのように思わせたからかもしれない。



そうなのだ。私は日本の歴史をならうよりさきに合衆国の歴史に親しんでいたのだ。星条旗への宣誓も暗唱した。毎朝、教室の前方にかかげられた旗にむかって唱えたその言葉は、私の体内を流れるリズムとなった。今でもなんなく暗唱できる。

不思議なことに、小学生の頃の私は、アメリカの歴史を異国の話としてではなく、そこに属するものとして聞いた。自分が日本人であることにはなんの疑問もなかったけれど、アメリカの歴史の部外者だと思うこともなかった。まるで自分が最初からその国に属していたかのような気持ちでいるじぶんになんの違和感も感じなかった。そして、アメリカの建国史は幼い私にとって非常に魅力的に響いた。ピルグリムの話も西部開拓の話も夢を与えてくれた。色々な本を読んで開拓時代の世界にひたった。なかでも「大草原の小さな家」は大好きで、日本語でも英語でも読んだ。また、ハロウィンにはピルグリムの女性に仮装したりもした。そもそも歴史は「知識」ではなかった。それは私を取り囲み、私の体内に浸透し、私の世界を形づくった。自分 を作りあげる物語として私はそれを受容した。その頃の私は日本もアメリカも等しく自分の一部として認識し、そこになんの境界も見いださなかった。周囲の人々も私がなに人かなど気にしていないようだった。

しかし、大学生として渡米したときにはまったく違う状況におかれた。当時アメリカ中のキャンパスがアイデンティティポリティクスの渦のなかにあり、スミス大学もその例外ではなかった。そのため留学生だった私も自分のアイデンティティを意識せざるを得なかった。学内には各エスニックグループを代表する組織があって、それぞれの主張を行なっていた。アフリカ系の子はアフリカ系の子同士で、ラティノ系の子はラティノ系同士でかたまり、そのグループから抜けることは裏切りとみなされた。境界を越えることは非常に難しく感じられた。アメリカ人と友達になりたいからアメリカに来たのに、アジア系の人としか付き合えないなんて変ではないか、と疑問に思ったのを覚えている。

最近、米国大統領選の民主党候補に立候補したカマラ・ハリス(Kamala Harris)の選挙戦のようすを伝え聞いて、境界を越えることの難しさをあらためて認識させられた。彼女はジャマイカ系、インド系アメリカ人でオバマ元大統領に続く候補と見られていた。その意味は、若者や有色人種など、層を超えた人々の心を勝ちとることができる候補だとみられていた。オバマ元大統領は、アフリカ系アメリカ人だけでなく白人や他の層の人々の支持を勝ち取ることができたからこそ選挙に勝てたし、初のアフリカ系の大統領になることができた。自分がもともと属するグループにしか受け入れられないままでは、勝てない。しかし、それは簡単なことではない。それが出来る人は稀だ。オバマ元大統領は奇跡のような人だったのだ。

境界を越えることは、どのようにしたら可能なのだろうか。

私はまだその答えを得ていない。ただ、それが大きなエネルギーを必要とすることであることはわかっている。

私はそのような力を得ることができるのだろうか。



2019年11月9日土曜日

勉強と生活



仕事をしながら大学に通うなどということは、まともなことではない。きちんと勉強するつもりならなおさらだ。もし、仕事をしながら大学に通い、それなりに勉強しようと思うのであれば、普通の生活をあきらめなければならない。普通の生活どころか生活自体がないも同然だと思った方がいい。

私はこの春に夜間の大学を卒業したが、よくもそんな無茶なことをやってのけたものだと、数か月たった今は思う。最近は仕事だけで疲れ切ってしまって、終業後に学校に通うことなんて想像もできない。

振り返ってみると、当時の生活はちょっと異常だった(笑)。仕事と通学と予復習以外何もしないという勢いで生きていた。人づきあいは避けたし、家事も生きていくために必要な最低限のことを除いてほとんどしなかった。するとしても、できるかぎり省略して時間をかけないようにしていた。というか、勉強以外のことを極力考えないようにしていた。

途中から大学の近くに部屋を借りて、そこで生活を始めた。そうしないと体力的にしんどかったからだ。大学に通うことだけを目的とした小さなワンルームのアパートだった。16平米しかなく、押入れもなかったので、最小限のものしか持ち込めなかった。(ほとんどの持ち物は千葉の貸家に置きっぱなしにした。)テレビもたんすも冷蔵庫もないのに、本棚と机はそれぞれ2個ずつあるという、生活の場としてはいびつな部屋だった。

ワンルームアパートは私にとって、普通でない生活と密接につながった存在だ。「生活のない生活」の象徴だといってもいい。「生活のない生活」とはどういうものか。生活を取り戻した今なら分かる。生活には生きることプラスアルファがある。それは日常のルーチンであったり、快適さを保つためのちょっとした努力だったりする。それらの余剰の部分は生きることにリズムと安定感を与えてくれる。生活は外界から自分を守ってくれるホームグラウンドだ。だからこそそれを維持するために努力がはらわれる。反対にいうと、努力や思いを注ぎ込むことによって出来上がるのが生活だ。

また、生活というのは目的に奉仕しないものだとも言える。目的を達するためなら、わざわざ生活の場を心地よくするための余計な努力(定期的に掃除したり、おいしい料理を作ったり、花を飾ったり)は無駄なだけだ。そのような努力によって得られる喜びは、なくてもいいものだ。

そのワンルームアパートは私にとって目的のためだけに選ばれた場所だった。だから、そこで生きることが「生活のない生活」となったのも当然の結果だ。そこに住んでいたころはいつも、どうやったら時間と体力を節約できるか、あるいは、どうやったらお金を節約できるかということばかりを考えていたような気がする。勉強のために少しでも多くの時間を確保しようと必死だったが、体力に不安があったので、できるだけ睡眠をとることも必要で、無駄なことに割く時間はなかった。週一回買い物に行ったけれど、いつもぎりぎりな気持ちだった。

あの頃の追い詰められた精神状態をどう説明したらいいのか分からない。もちろんその最大の原因が仕事をしながら大学に通うという異常な状況だったことは間違いないが、あのワンルームの空間も原因のひとつだったと言っても差し支えないだろう。あの狭い空間のなかには逃げ場がなかった。すべての機能が同じ空間のなかに押し込まれたワンルームでは、手足を存分に伸ばすことも歩き回ることもできなかった。つまり、無駄なスペースがなかった。そして、無駄なスペースがないことが私を息苦しくさせ、心が休まるのを妨げた。

今朝台所で洗いものをしながら、そういう何気ない日常的な作業が自分を安心させることをしみじみと実感し、この数年そのような安心感を持てないでいたのだということに気づかされた。

2019年11月2日土曜日

書くことは記憶を呼びおこすこと


書くことは記憶を呼びおこすことだ。リルケは若き詩人に幼年時代について書くことを勧めていたけれど、それは記憶の作用と無関係ではないだろう。詩人は深い記憶の泉から言葉とイメージを汲み出す。意識の表層に浮かぶ灰汁を漉しとることが大事なのだ。


しかし、記憶が枯れることがある。記憶をたどろうとしても何も出てこない。意識が記憶への回路をブロックしているかのように、色々な感覚が断ち切られる。別にトラウマがあるわけではない。ただ、神経が今この瞬間の情報を処理するのに忙しく、皮膚下5センチほどのところを駆け巡って、意識をのっとっているのだ。まるで記憶喪失にかかったかのような状態だ。それは今の私の状態でもある。

PCの前に座って画面をにらんでも頭のなかは真っ白。なんの記憶も浮かんでこない。最近の出来事しか思い出すことができない。今この瞬間に起きていること以外のことについて考えることも感じることも脳が拒否しているかのようだ。(実際に拒否しているのが脳なのか、それ以外の何かなのかは分からない。ただ、記憶を呼びおこそうとして集中すると、頭のなかがずきずきしてくるのだ。)そして、今起きていることもゆっくりと味わう暇のないままどんどん消えていく。感じることがないから、記憶にも残らない。

それは考えてみると怖いことだ。自分の過去の記憶がないこと、過去の感覚を思い起こそうとしても思い出せないことは、自分が失われたような感覚を私に抱かせる。自分が不確かなものに感じられ、自分という存在が連続性をもって存在しているということが信じられなくなる。世界がどこか少しずつおかしいような気がしてくる。でもおかしいのは実は私なのかもしれない。

記憶喪失に陥った私はどうやって文章を書けばいいのだろう。今私は空白のなかから言葉を拾うようにしてこの文章を書いている。その言葉が私をどこかに連れて行ってくれることを期待しながら。目を奪う出来事に囚われないように言葉を書こうとすると、それしか方法がない。こんなことを書くのも、ぬかづきさんの「のどかな言葉」を読んだからだ。なぜ彼は、そこに書かれたような感覚を思い出すことができるのだろう。私も似たようなことを感じたことはあるはずなのに、なぜそのときのことを思い出すことができないのだろう。ぬかづきさんは研究で使う「厳密な言葉」とは異なるものとして「のどかな言葉」を運用している、と書いている。それはつかめないイメージをつかむような言葉だ。私も仕事や他人との会話で使うような実用的な言葉とは違うものとして「のどかな言葉」を書きたい。仕事に熱中するほど、その仕事によって生じる心のしこりを治めるために「のどかな言葉」が必要だと思う。それは私にとって外界を遮断してPCに向かったとき、空っぽの私のなかから生じる言葉だ。「仕事をする私」が外の世界で浴びてしまった塵を払い落としたあとに残る言葉だ。



『クリミナルマインド』というアメリカの刑事ドラマで、残虐な事件を見続けるFBI捜査官たちは、この仕事は私から何かを奪う、と互いに打ち明けるが、どんな仕事も私たちから何かを奪うのではないだろうか。そのなかにいると当たり前になってなにも感じなくなることもあるけれど。だから私は、自分自身を回復するためにみそぎの儀式のようにこの文章を書いている。

2019年10月18日金曜日

うさぎの穴とマイ・ワールド


子ども時代に多くの引越しを経験した人とずっと同じ町で育った人とでは、世界の見え方がまったく違うだろうと想像する。学齢期に海外暮らしと帰国後の適応の難しさを経験するなかで、引越しをしたことがない子の世界の揺るぎなさをうらやましく思った。引越すたびに、すでにできあがっている関係の輪のなかにどうやって入っていけばいいのか途方に暮れ、新しい世界のルールを理解することに苦労しながら、他の子たちから見える世界はどのようなものなのだろう、と不思議でならなかった。

だからといって、引越しが悪いことばかりだったわけではない。私が豊かな物語の世界にひたることを覚えたのは、引越しのおかげだ。特に小学校1年のときの海外移転は、どんな冒険物語にも負けない冒険の世界に私を引き入れた。何もわからない未知の世界に踏み込むことは恐ろしいことであると同時に驚きに満ちていた。右も左も分からず、言葉も通じない世界だからこそ、感覚が鋭敏になっていたのかもしれない。それは『宝島』の小説を読んだときの気分に似ている。見慣れたものが何もない世界に放り込まれて、危険と隣り合わせで絶えずひやひやしているかと思うと、目がくらむような眩い宝に囲まれる。すべてがカオスで、そこにどのような論理が通っているのか見当もつかない。あるいは、うさぎの穴に落っこちたアリスのようでもある。まったく筋の通らない世界で混乱の渦に飲み込まれる。そのような世界に生きていると、否が応でも想像力がたくましくなる。想像力を膨らませることによって、分からないことを補うしかないのだから。言葉が通じず何が起きているか分からない世界ではトイレに行くことさえ冒険だ。通い始めた現地校で、トイレの前までたどり着いたのに、男子トイレか女子トイレか分からず、途方にくれて立ち尽くしたことを覚えている。


アメリカに引越したとき、最初に降り立ったのはサンフランシスコだった。当時の私は、サンフランシスコと聞いて、油が流れる坂道を皮革のブーツをはく大柄な人々が闊歩する町を思い描いていた。西部劇の世界に放り込まれるような気持でいたのかもしれない。サンフランシスコで泊まった宿は、薄暗く、古びていて、エレベーターはガタガタと音がした。今にも物陰からギャングが飛び出してきそうで、私は気が気ではなかった。6歳の私にとって、すれ違う非アジア系の人々は皆、私を襲おうと狙っている悪者に見えた。

サンノゼの新しい家に移り現地校に通い始めたあとも、言葉が分からず、何が起きているかさっぱり分からない状態が続いた。赤ん坊が言葉を覚えるまでも同じようなものなのかもしれない。それは世界が意味を失った状態、つまり、カオスのなかを漂う状態だった。だからこそ、あらゆる場所に想像の世界への入り口が転がっていたともいえる。

その期間を通じて私には架空の小人の友達がいた。未知の土地へ引っ越す怖さ、何が起きるか分からない怖さも彼らがなだめてくれた。彼らは白雪姫の七人の小人たちのように私を取り囲み、私に勇気を与えてくれた。よく彼らと一緒に町を探検した。町といっても、せいぜい自分の住む道(Ariel Drive)の角までだったけれど。不思議とそのあたりでは、登下校時間を過ぎると町はしーんとして人気がなくなった。子どもたちは、塀で囲まれた裏庭で遊んでいたのだと思う。

想像上の小人たちはやがて実際の人形に姿を変えた。マリちゃん、アンソニー、キンバリー、人形たちは一人ひとり名前を持った特別な存在だった。彼らが特別だったのは、忠実な友だちでいてくれたからではないかと思う。私は、お話をつくって人形たちと遊ぶことを楽しんだ。やがて現実の友達ができて一緒に遊ぶようになったあとも、どれだけ面白いお話をつくれるかは大切なポイントだった。子どもの遊びというのはすべて物語をつくることの上に成り立っていることを思えば、物語をつくる能力に特別な価値をおいていたのも当然のことと思える。私は、心のどこかで、想像の世界を共有できる人こそが真の友達だと思っていた。

 *サンノゼで住んでいた家。当時は家はベージュ色で、前庭も芝生ではなかった。

サンノゼに住んでいた頃、毎週土曜日にはスクールバスで1時間ほど離れたサンフランシスコの補習校に通っていた。多分、現地の高校の建物を借りていたのだと思う。6時ころに起こされ、弁当を持たされ、スクールバスの停車場まで車で送ってもらう。そこから友達とバスに乗り込んで補習校に向かう。補習校の記憶はおぼろげにしかないけれど、そこでありさちゃんという友だちと出会ったことを覚えている。彼女はまさに想像の世界を共有できる人だった。私たちは、始業前には、補習校の校庭の広場になった場所でバレーごっこをして遊んだ。白鳥の湖とか、くるみ割り人形とか、自分たちで勝手に振り付けを作って踊るのだ。人が通るのも構わず。そして、ありさちゃんもサンノゼ方向に住んでいたので、下校時にはバスで隣の席に座って、互いに小説を書きあった。1時間のバス旅の間にそれぞれの小説を書き上げ、降車場につく前に交換する。すべての子どもがお話を書くことを好むわけではないので、そのような友だちがいてラッキーだった。

実は、サンノゼ-サンフランシスコ間のバス旅が好きな理由はほかにもあった。バスが通ったのは、ハイウェイ101だったと思う。親から離れて子どもだけで隣町まで旅するというのはそれだけでドキドキする冒険だったが、私は窓の外の風景にいつも魅了された。サンノゼからサンフランシスコにいたるハイウェイはなだらかな丘に囲まれていて、そこに牛が放牧されていることもあった。サンフランシスコに近づくと、辺り一帯が霧に包まれ、物憂い雰囲気を帯びた。その道中の丘の上に一軒の石造りの小屋があった。周りには何もなく、小屋だけがぽつんと建っていた。人が住んでいたのかどうかも分からない。それはまるでハイジにでも出てきそうな風景で、私だけの宝物だった。それは、子どもだからこそ見えた風景だったのかもしれない。今でも思い出すと特別な気持ちになる。


その後、小5で私は帰国したが、帰国後の方がより深刻な混乱に投げ込まれたし、適応することに苦労した。あのままアメリカで育っていれば私の人生はもっと違ったものになっていただろうな、とことあるごとに思う。でもそれはまた別のはなし。

2019年10月4日金曜日

家と魔法



いま引っ越しの真っただ中だ。

ここ数年、「引越し」という観念が頭の片隅でちらついていた。最初は「いつか引越そう」と遠くに思い浮かべているだけだったのだけれど、しだいに思いが膨れ上がって、今年7月には「年中に引越す!」と決意するまでになっていた。結婚もそうなのだけれど、こういう大がかりなプロジェクトは、よほどエネルギーを掻きたてないとなかなか重い腰を持ち上げられない。私もはじめは、今すぐでなくていいやと先延ばしにしていた。でも、時間が経つにつれて、自分のおかれた不安定な状況が我慢できなくなって、「私も私の人生を持っていいはずだ」と思うようになった。その不満を起爆剤として、引越しのために行動を起こすところまで自分を追い込んだ。

最初見た部屋は西武新宿線の新井薬師前駅にあった。「桜と公園と手づくりの部屋」というコピーとサイト上の写真がなんとも魅惑的だったのに惹かれて問合せをした。それは、ちょうど夏休みを取った金曜日で、契約済みという返信があったと思ったらほどなく契約者が保証の審査に引っ掛かったので契約がなくなったとの連絡が入ったので、その日の午後に早速見に行った。まだ心のなかに抵抗があり、内心面倒くさいと思いながらも、その面倒くささを追い払うように、連絡を受けた直後に電車に飛び乗った。目的の駅でおりて商店街を歩く心のうちには、なぜ自分はこの知らない町を歩いているのだろう、という不思議と不安が渦巻いていた。よそ者であることに意識過剰になりながら、ドキドキする気持ちを気取られないように商店街を抜けて、坂道を下り、大通りの並木の下をくぐった。そのマンションは、大きな公園のすぐ隣にたっていて、窓からの眺めもよく、レトロで味のある部屋だった。ドアを入るなり三角形のダイニングの変則的な形とDIYの白いペンキが目に飛び込んできた。ダイニングから直接つながる3つの寝室も、床や壁はDIYが施されていて、キャンプ地のような雰囲気があった。案内してくれた不動産屋のお姉さんも不動産屋さんというよりはキャンプのリーダーという風情の人で、家を見ているという感じがしなかった。ゆっくりと部屋を見た帰り、もと来た道をたどりながら、ひとつの任務をまっとうしたようなほっとした気持ちになった。その日を境として私は、ぎくしゃくしながらも、「家を探す」という現実を自分のこととして受け入れていった。


自分の住みたい家をととのえる。やっと夢を実現できる嬉しさと、生活が固定される気の重さとが混ざり合い、複雑な気持ちだ。これまでずっと生活の形が決められてしまうことに抵抗してきたから。(買わないにしても)家に思い入れを持つことはそんな私のポリシーに反する。でも、私は自らの選択として生活の形を決めることにした。抵抗をやめたというより、生活の形を決めるというチャレンジを受け入れることにした、というのが真情に近い。

マイホーム主義は嫌悪するが、自分の部屋がほしいという夢は子どものころからあった。父の仕事で小学校1年から5年まで住んだ米国の西海岸の家は、裏庭に面したリビングルームと3つの寝室以外に、通りに面した大きな窓の広い部屋があり、弟の誕生後はその部屋を自分専用に使っていた。部屋が大きかったので、区画にわけて使えて楽しかった。ダイニングルームから椅子を持ち込んで、部屋のなかにテントを作ったりもした。裏庭に大きな木があったので、そこにツリーハウスをつくろうとしたこともあった。結局うまくいかず、枝と枝のあいだに板をかけて終わってしまったが。あれはなんという木だったのだろう。乾いた小さな赤い実をつける木だった。

帰国後は西海岸の家の三分の一ほどしかない狭いマンションで、8畳程度の部屋を弟と共有しなければならなかったけれど、それでも間をエレクトーンと箪笥で仕切り、自分だけの部屋を作ることに固執した。布団を敷いたらいっぱいになるほどの狭い部屋だったけれど、それは自分だけの部屋だった。自分で大工センターから骨組みを買ってきて、棚を作ったりした。そのマンションがよかったのは、上階にいくほど部屋数が少なくなっていく構造で、飛び出した部屋の屋根に上の階の廊下からよじ登れることだった。誰も見ていない隙を見計らっては、屋根に登って自分の秘密基地にして遊んでいた。屋根の上には出っ張った構造物があったので、その上に座って本を読んだり、遠くを見渡したりした。


子どものころ、自分の部屋というのは物語と結びついていた。それは空想の入り口で、いつでも私はそこにないものを見ていた。空想を助けてくれるのは人形たちだった。よく考えると、たとえ友だちがいなくても、弟が遊び相手としては小さすぎても、人形という遊び相手がいた。いつでもその人形たちに話しかけることができた。今でも覚えているのは、まりちゃんとアンソニーという、母が作ってくれた1メートル以上ある男女の人形、30センチ程度の和服の女の子の人形(それも着物を含めて母がつくった)、キンバリーというプラスチック製の黒人の女の子の人形。その人形たちは、どこへ行ってしまったのだろう。いつから彼女たちと遊ばなくなってしまったのだろう。大切な友だちだった彼女たちとの別離の瞬間は、いまや思い出そうとしても思い出せない。

不思議なもので、大学卒業後は自分の部屋に対してほとんど思い入れを持つことがなかった。結婚前は、ルームシェアをしていたから間借りをしているという気持ちが抜けなかったし、結婚後もどう生活をしていくのかで頭がいっぱいで、落ち着いて家を整えるという気になれなかった。そのようにして形にはまってしまうことが怖くもあった。

今、引越しについて考えられるようになったのは、自分の仕事の方向性が少し見えてきたからというのもあるけれど、それと同時に、たとえ家を整えても、形にはまらないでいられると思えるからかもしれない。子どもの時と同じように、そこに空想の世界への入り口を見つけられたからかもしれない。これから何年も仕事をしながら生きていかなければならないけれど、いやだなぁと思いながらも仕事を続けるためには、自分を守ってくれる自分だけの空間が必要だ。以前はそれを親が作ってくれた。父がお金を払い、母が家の形をつくり、そこに魔法のシールドをかけて守ってくれた。でも、今は一人でそれをしなければいけない。自分を守る魔法のシールドを自分でかけなければいけない。腕の弱い魔法使いだけれど、持てる力を精一杯増やして自分の家を守っていかなければならないのだ。


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次回は10月の第3土曜日(10月19日)あたりに更新する予定です!

2019年9月20日金曜日

つかめるようでつかめない

私という人間のなかには色々な要素がある。それらの要素は、時宜に応じて表面に現れ、必要がなくなると姿をかくす。それらの諸要素が、私という複雑な迷路のどこに潜んでいるのか、どうすれば呼び戻せるのか、私にもわからない。その隠れ場所はどんな地図にも示されていない。その存在さえ、時がたてば忘れている。

しかし、何かの突発的な事件によって、ある要素が呼び覚まされることがある。蔦谷匠さんの文章は、私のなかの閉ざされた部分を開く、ひとつの触媒だった。特に、「ぬかづき」というペンネームで「アパートメント当番ノート31期」というページに書かれた彼の文章を読んでいるうちに、まるで記憶喪失から回復するかのように、ここ数年失っていた自分の一部がよみがえってきた。


「ここ数年失っていた自分の一部」に名前を与えるとしたら、それは「感性」または「感受性」と呼ぶべきものだ。漠然としていて、つかみづらく、言葉できっちりとその境界をはかり固定することはできない。空をただよう雲のように、つかもうとすると指のすき間から逃げてしまう。


でも、ぬかづきさんの文章を読んでいるうちに、眠っていた感覚が呼び覚まされた。春の訪れとともにどこからともなく芽吹く緑のように、眠っていた感覚が徐々に頭をもたげた。それはまだ弱々しく、か細い触手をおそるおそる空に伸ばしている。実際、そこにある微弱な感覚を拾いとるのは困難だ。じっと集中して自分のなかをのぞき込んでいないと、ほかの分かりやすい刺激に簡単に引っぱられてしまう。

「アパートメント当番ノート第31期」のぬかづきさんの寄稿をひとつひとつ読んでいくと、共通する雰囲気があることに気づく。どの文も、大きな事件のまわりをめぐっていない。出来事の面白さを駆動力としていない。むしろ、彼にしか分からない個人的な感覚を記憶のなかから引き出している。一見何もしていないかのような、名づけられない時間のなかで、筆者の感覚は生きていて、感じている。その感覚の豊かな記憶が私の感覚を呼び起こす。


ぬかづきさんは雨が好きだ。雨の音、そのにおい。そういったものが彼の記憶のなかにしまい込まれている。歩いて、自転車に乗る。名づけられない時間。カレンダーのなかの空白。

そのような空白を感じる感覚、感性を私はながいこと失っていた。意識的に捨てた面もあるし、知らないうちに失われていた面もある。


自分のなかから感性が失われた理由はなんとなく分かる。意識的な面でいえば、キャリアを得るために必死にならないといけなかった。受験勉強、仕事をしながらの学位取得、職場でのトライアル。必然的に目標達成志向のマインドセットになる。時間の使い方が計画的になるし、無駄をなくすことが善となる。勉強に疲れたときも、いち早く疲れを取ろうと、分かりやすい娯楽に向かう。細やかな感覚を味わうよりも、外から刺激を与えてもらうほうが楽だから。それは結果を得るために必要な態度だった。ただ、その過程で、目標達成に結びつかないものは切り捨てられる。

それとともに、感性に価値をおく人が周囲にいなかったことも一つの原因だと思う。仕事をしながら受験勉強をしたり大学に通ったりすると、人と交流する時間がほとんどないため、人間関係がきわめて狭くなる。そして、私の周囲にいた数少ない人々は、実際的でないもの、言葉にできないようなあやふやなものに価値を見出さない人ばかりだった。特に一番影響を受けた人がそうだったので、知らないうちに、自分のなかの感覚的な部分にアクセスしなくなっていた。使われない筋肉は退化する。同じように、接続されない感覚はしなびる。

「感性」は人に備わっているものだから、人と共有するのは難しい。たとえ言葉で説明することができたとしても、同じ感覚を分け与えることはできない。それは、持っているか持っていないか、そのどちらかしかないという類のものだ。だからこそ、感性の通じる人に出会うと嬉しくなる。今回、ぬかづきさんの文章を読んだときのように。「雨の匂いは豆の匂い」を読むと、彼がパートナーのなかに感覚を共有できる相手を見出しているのが分かる。羨ましく思う。素敵な話なのでここに転載する。

 今なら、自分以外の人がこの匂いを認識しているのか、しているとしたら、その正体をどう認識しているのかがわかるだろうと思って、隣を歩いているRに尋ねてみる。
 「この匂い、なんて呼んでる?」
 「この匂い、だよね? 雨の匂い、かな」
 答えを聞いて、わたしはこの人と一緒になって良かったと、なんだかそう思ったのだった。

ところで、この文章を書きながら、私の一部が失われたもう一つの理由に思いいたった。文章を書かなくなったからだ。何かを感じることと、それを文章によって再現することは、二つの異なる事象だと人は思うかもしれないけれど、私にとっては切り離すことのできないものだ。いい文章を書きたいから感覚を磨く。文章を書くために、生きた感覚を思い起こそうとする。記憶を蘇らせながら文章を書くことは大変な作業だ。集中力が必要だし、時間がかかる。大きなエネルギーを使う。だから、書かなくなってしまったのだと思う。



自分のなかの諸々の要素を生かし続けようと思ったら、努力しなくてはいけないのかもしれない。そうしなければ、どの要素も簡単にしなびてしまう。

なんだか茨木のり子の詩『自分の感受性くらい』を思い出す。

そして今、「アパートメント当番ノート第31期」を読んで、私のなかで何かうずくものがある。それはまだほんのかすかな胎動だ。でも、忘れないうちに書き留めておきたい。そこで読んだ文章への、ひとつの応答として。

振り返り 12月27日(金)仕事納め

12月最後の金曜日の今日は仕事納め。 しかし、仕事納まってない。 12月後半は、締め切りが重なって怒涛の日々だった。しかも作業量の大きい案件ばかり。 そして締め切りラッシュは年明けまで続く。