2021年1月31日日曜日

ヴァージニア・ウルフと私

 


(C) George Charles Beresford 

 ヴァージニア・ウルフは間違いなく偉人の一人だ。文学の歴史を紐解こうとする者は彼女の名前を無視することはできない。しかし、どこか捉えどころのない女性であることも確かで、先達として彼女を尊敬しつつもなかなか個人的なつながりを感じづらかった。

 ヴァージニア・ウルフの名前を初めて知ったのは大学生の頃だ。母校はリベラルな女子大の例にもれずフェミニズムに強く傾倒しており、ヴァージニア・ウルフの資料のコレクションを保持していた。特に文学を専攻していたわけでもヴァージニア・ウルフに興味を持っていたわけでもなかったが、意識せずとも彼女の名前が記憶に刻み込まれた。また、ちょうどその頃、町の芸術的な方の映画館(町には2つ映画館があった、一つは芸術的な映画を上映する古い劇場でもう一つはショッピングモール内の映画コンプレックスだった)で『オーランド』を上映しており、話題になっていた。当時の私は『オーランド』がなぜそんなに話題になるのか見当もつかなかったし、見に行くこともなかったが。

 実際にウルフを初めて読んだのは大学を卒業したあとだった。なぜ読んだかは覚えていないけれど、多分、有名な文学作品だから読んでみようという軽い気持ちだったと思う。その結果、残念ながら理解できなかった。でも、強い印象を受けたのは確かだ。すごい作品だ、と理解できないなりに思った。

2021年1月19日火曜日

記憶喪失

 


「ひとり」を書き終わったので次に何を書こうかと夜道を散歩しながら考えた。

 私の夜の散歩コースはだいたい決まっている。住んでいる団地を出ると川に向かって歩き、グラウンドに出たら左折する。前方に大学図書館、右にグラウンドを見ながら進み、図書館に突き当たったら右折する。図書館はギリシャ神殿のような立派な建物だ。図書館の隣に大学のキャンパスと地続きに公園が広がっている。公園の外縁をその敷地が途切れるまでたどったあと園内の小道を通って図書館の前まで戻り、別の道から帰宅する。

 このコースは夜でも人工照明が明るく、人通りが多くも少なくもない。ジョギングをしている人とたまにすれ違う程度だ。ジョギングに適した道なのだ。その上広々として見晴らしがいいので、考え事をしながら歩くのにはぴったりだ。

 しかし、この日、書く題材を考えながら歩く私の脳裏には何も浮かばなかった。印象的な出来事を思い出そうとしても何も出てこない。過去の記憶がすべて輪郭を失い、うすぼんやりとしている。大学と公園と工場が並ぶこの再開発地帯を散歩する現在の私は、過去の一切から切り離されているように感じる。

2021年1月14日木曜日

ひとり

  八月末のある午後、区役所に行った。離婚届を出すためだった。

 三時半に仕事を終わらせ駅に急いだ。区役所に行くにはバスで三十分ほどかかる。四時のバスに乗ればぎりぎり間に合うはずだった。駅前のバス停には列ができていた。列の最後尾についた。耐え難い暑さだった。日中、外に出るのは自殺行為だ。

 バスは本当に時間通りに来るのだろうか。大事故に巻き込まれていたらどうしよう。それでなくても、交通渋滞で遅れているかもしれない。そんな不安をよそに、時間通りにバスが滑り込んだ。

 駅前を出発した四角い車体は図書館の横を過ぎると右折して水戸街道に入った。高架道路の下を進んで行くと橋の手前で道が合流した。道は混んでいた。私はバスのスピードの遅さに気を揉みながら窓の外を睨んでいた。車の進行に体中の全神経を集中させていた。

2021年1月6日水曜日

新しい年の始まり 2021



新しい年が始まった。

だから?

年号のおしりに「1」がついたところで何が変わるのでもないでしょ?

全くその通り。100パーセント正しい。

年が明けたからといって人生がリセットされるわけではないし、

年初の抱負を立てるなんて馬鹿げた習慣だ。

一日が他の一日となんの区別もつかないような日々を生きていると、区切りという概念に意味を見出せない。

そうは言いながらも一年の目標は考えた。

身を切るエッセイ漫画 永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』

作品の帯にはこう書かれている。 「高校卒業から10年間、息苦しさを感じて生きてきた日々。 そんな自分を解き放つために選んだ手段が、 「レズビアン風俗」で抱きしめられることだった―― 自身を極限まで見つめ突破口を開いた、赤裸々すぎる実録マンガ。」 大学があわなくて中退して以来、アル...