2021年8月21日土曜日

一人称複数 ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』(訳:岩本正恵、小竹由美子)


photo by Robert Bessoir

「船のわたしたちは、ほとんどが処女だった。」

 この印象的な文章でジュリー・オオツカの『屋根裏の仏さま』は始まる。

「船の」とはどういうことか? 

「わたしたち」とは誰か?

 いぶかしむ読者は「わたしたち」が写真だけを頼りにアメリカの同胞の花嫁となるために日本各地から集められた娘たちであることを知る。背景に戦前の日本の貧しさを嗅ぎ取ることは容易だ。少しばかり歴史の知識のある者なら19世紀後半から20世紀初頭にアメリカに渡った「写真花嫁」の存在を思い浮かべるかもしれない。

 この物語は、アメリカに移民した男性たちと写真だけのお見合いによって結婚して、一度も会ったことのない花婿を追ってアメリカに移民した女性たちの物語だ。彼女たちの物語は、祖国を捨てて新大陸に移民した多くの人々の列に連なる。しかし、彼女たちの物語は新しい土地での可能性にかける開拓者の物語ではない。それはむしろ、まだ見ぬ男性との結婚によって貧困を脱することを夢見た少女たちの物語だ。その意味で貧しい家族の口減らしのために売られていった、戦前の日本の多くの女性たちの物語に重なる。それらの女性たちと同様、彼女たちを待ち受けていたのは、夢みたものとは似ても似つかぬ貧しい小作農の夫と過酷な農業労働、白人社会の中で差別されながら隠れるように生きる日々、そして異文化で育ち親とは全く異なる価値観を持つ(親の文化をバカにする)子どもたちだった。

2021年8月16日月曜日

ノートテーキングによって情報を蓄積する

 必要に迫られて仕事術の本を数冊借りた。「仕事のできるビジネスマンはここが違う」的なうたい文句が散りばめられたビジネス書や、社会人の読書術やらレポートの書き方やらいかにもサラリーマン向けの指南書ばかりで笑ってしまう。企業を辞めたときにこういう世界とは縁を切ったつもりだったのに、再びこんなことに頭を悩まそうとは。  だが仕方がない。行き詰った時はやり方を変える、というのが人生経験の乏しい私の金科玉条だ。新しい職位について早一年半、有難いことに少しずつ仕事が増えてきたが、その量を管理しきれないばかりか、今までの知識ではどう対処していいか分からない課題も出てきた。同時に自力で課題を解決できるようになりたいという自意識も芽生えてきた。何かを変えなくてはいけない。  問題は、新しい課題を渡されると頭が真っ白になって思考が停止することだ。資料を読んでもそこから何を読み取ればいいのか分からず、時間ばかりが無為に過ぎる。期限が迫って仕方なく形を整えた何かを提出するのだけれど、自分でも何をやっているのかよく分からない。「AとBをやって」とか「Cについて調べて」と具体的に指示を出してもらえれば問題なく作業を進められるけれど、道筋を示してもらわないと何もできない。大海でもがく金づちのような惨状。息を吸おうと水面に顔を出す端から波が覆いかぶさってくる。  まずはアタマ真っ白状態から抜け出さなくては。前後左右どちらにも進めない硬直状態を打開しなくては。右へなのか左へなのか分からないが、動き出せればどちらでもいい。日々学んだことを記録するためのノートが今一つ有効に使えていない状況を改善しようと図書館で手に取ったノートテーキング術の本が次の一歩への取っ掛かりとなった。初めの一歩。真っ白な紙の上に打たれた点――座標軸の始点。

 「仕事ができる人」がどうとか「外資系コンサルタント」はこうとかと各ページに登場する邪魔な修辞は本を売るための装飾と割り切って無視する。全ての主張に肯首できなくてもいい。使えれば。そして使える部分はあった。役に立つ部分、仕事を助けてくれる部分が。  それを始点とする。つまり、ポイント0(ゼロ)。  で、いったい何が分かったのか。  発見1:A4ノートを横長に3分割して使う使い方。その意味は空間に枠を与え、思考を見開き1枚の空間に視覚化するということ。3分割するのは思考を展開するためだ。まずべたな事実があるとする。勉強でいえば、授業で板書されるレベルの事柄だ。それに対する解釈、疑問、そこから導かれる事項がある。それらをすべて俯瞰した上で、最終的な結論がある。その場合、左側に事実、中央に思考の過程、右側に結論を書けばいい。要は、思考は必ず重層化するということだ。しかし、普通に前からノートを埋めていると、重層化した思考を視覚的に書き留めることができない。そのためには予め枠によって確保された空間が必要なのだ。  発見2:書いた内容を捨てていい。つまり、最初から最終形だと思って書かなくていい。最後の結論に達するまで何回も書いて何回も捨てるプロセスを繰り返す。それはそのまま思考のプロセスに対応する。通常、思考の上に思考を重ねるようにして何回もその流れを繰り返すことによって、いい考えに達する。最後の考えの中にはそれまでの思考の積み重ねが含まれているけれど、目に見えて残るのは最後の結論だけだ。だからと言ってそこに至るまでの何重もの思考がなくてよかったわけではない。思考が何重にも積み重ねられたものであるように、ノートも何重にも書かれてよい。いや、むしろ、書いて捨ててを繰り返しながら何重にも書かれるべきなのだ。ただし、文字通り物理的に捨てるわけではない。残すことに意味があるからだ。  つまりノートとは残すためのものなのだ。蓄積こそがノートの目的だ。  私にとっての仕事の困難は、大量の情報を管理できないことにあった。情報というのは仕事の手順のような事務的なレベルから、文献を読みこなすための専門的なレベルまである。事務的なレベルにおいても学んだことを覚えておけないし、一つのことを注意すると他のことを忘れてしまう。次から次へと自分に投げつけられる課題が手に負えず、日々の出来事がカオスにしか感じられない。忘れないようにノートに書いておいても、どこに書いたかが分からなくなる。

 仕事は流れ続けるものだ。日々新たに処理すべき事柄に追われ、それが繰り返す。流れを止めることはできない。しかし、ある時点で学んだことを後日活かし、日々の業務の問題点を改善できなければ、成長はない。そのためには日々学んだことや気づいたことを記録する必要がある。しかも、後日取り出せる形で。つまり時間を止めることが求められる。それがノートだ。ノートは時間を止めて情報を蓄積するための道具(ツール)なのだ。  先ほど、ノートを3分割する方法を紹介したが、私にとってその方法が有効なのは、事実を記録することと、その事実に対する気づきや反省とを同じ空間に留めることができるからだ。それによって情報を蓄積することが可能になった。ちなみにこの方法は『頭がいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?』(高橋政史)で紹介されている。この本に紹介されているメソッドが究極のノートテーキング術だとは思わないけれど取っ掛かりにはなるので興味がある人は参考にしてほしい。  『頭がいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?』(高橋政史)を読んで実際に自分の仕事に適用してみたことを紹介する。  適用その1は、業務ノートだ。  見開き1枚の上下に見出しとメモスペースを取り、中央部を4つのセクションに区切って、時間割り、やることリスト、実際の業務の内容・気づきを書くスペースを取る。するとその日の諸々の大小の業務が全て一目で見てとれ、情報のIN/OUTも一望できるノートができあがる。一日の出来事が視覚的に一気に目に入り、頭にも収まる。  適用その2は、仕事の課題の洗い出し。アタマ真っ白状態を引き起こしたのはなにか。必要なのは「問題を切り分ける」こと。大きすぎる問題を対処可能なレベルまで小さくするという研修屋さんの大好きなメソッドだ。  私の仕事特有の問題なのでどこまで汎用性があるか分からないが、私の仕事(弁理士業)を分解すると、物を読む、整理する、書く、という基本行為の集積なので、その意味では他の多くのホワイトカラー職業の最大公約数的な仕事とも言える。  現在の私の最大の課題とは何かと言えば、新規出願の明細書を書くことだ。明細書とは特許を受けようとする発明を説明する10~100枚程度の説明文書だ。それは他に例えるなら、営業マンにとっての提案書や研究者にとっての論文または一般的な仕事の報告書のようなものだと言える。つまり、何かを伝えることを目的とする型の決まった文章だ。  明細書が書けないという私の課題に対して、『頭がいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?』(高橋政史)の提示する方法に従ってA4を3分割してノートの左欄に課題(事実)を書き(事実と意見を色分けできないのが多くの人の問題なのだそうだ)、なぜそのような問題が起きるのか自問を繰り返しながらその答えを中央欄に書き(「なぜ?」を5回繰り返すのが外資系コンサルタントの方法らしい)、最後にどうすればいいか、アクションを右欄に書くということをやっていくと、意外にも頭が整理され、作業を終えたころには渾沌の泥沼から抜け出ていた。しかも、アクションプランを携えて。  具体的なアクションプランは大して面白いものではないが、一応明かしておくと、 1)明細書のあるべき形式を確認する(書き出す) 2)発明の内容を、課題、解決手段(発明の構成要素)、および効果という項目に分けて理解する(書き出す) 3)2)の発明の内容を1)の形式に当てはめる。 というものだ。  実際の明細書は、さらにこれを膨らませたものになるが、この骨子を踏襲して作業を進めれば目的を外さない明細書が書けるだろう。  ここでポイントは、思考過程を記録して、うまくいかなければ何がうまくいかないのか、次どうすればいいのかを同じ場所に書き留めて、徐々に改善できるようにすることにある。  ここ数年の経験を通じてつくづく、自らの成長を感じられないことは希望をそぐものだと感じる。何度も同じ失敗を繰り返すこと、努力しても結果が見えないこと、このような無意味な繰り返しは賽の河原に石を積むようなもので、人のやる気をむしばむ。成長を実感できるとわずかながら生きること全体に希望を感じることができるようになる。単純だが、紛れもない実感だ。

境界性人格障害当事者の記録 悠風茜『自殺依存』

 ツイッターを退会した。深く考えず衝動的に。 深くは考えなかったけれど今日読んだ『自殺依存』に影響されたとは思う。 この本、二週間以上前に図書館で借りたけれど、すぐ読む気にもなれなかった。でも、最近精神的によくない状態が続いていて、どうしたらよいか分からなかったのでとりあえず手に...