2022年11月13日日曜日

読書録:ミン・ジン・リー『パチンコ』(6) 11月11日(金)

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 イサク、勤め先となる教会を訪れ、困難な現実に直面する。

 イサクが訪れるとユ牧師が姉弟間の争いの仲介をしている。ユ牧師が、姉弟に対しては思いやり深く、イサクの尊敬を誘うのに、二人が帰ると現実的で冷ややかな態度になるのが興味深い。何が彼をそのように変容させるのか。


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 女たちの章。ソンジャとキョンヒの日常が描かれる。

 二人はすぐに固い友情で結ばれる。その様子が女学生のようで微笑ましい。

 ソンジャの日常は、市場に買い物に出かけ、食事を作り、家事を切り盛りするという点では故郷と変わらないけれど、今はキョンヒという楽しい仲間がいる。精肉店の主人は、日本人だが二人に優しい。彼も精肉という職業柄、日本人の中では蔑まれていることがさりげなく書かれる。これまでは、真面目で大人しいイメージしかなかったソンジャが、義姉と打ち解けるにつれてお茶目な面を見せる。また、子どものいない義姉を思いやす彼女に力強さを感じる。

2022年11月12日土曜日

読書録:ミン・ジン・リー『パチンコ』(5) 11月8日(火)

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 夕食後、二組の夫婦は銭湯に行く。

 風呂で汗を流してさっぱりした四人が仲良く家に帰る姿はほのぼのとしている。風呂上がりの四人が道を歩くシーンは懐かしさを誘う光景で、家族的な安らぎを感じる。今後の展開が楽しいものとはならないことを予想できるだけに尚更貴重な場面だ。実際、ヨセプはイサクが政治活動に巻き込まれることを危惧して、政治活動には関わるなと一生懸命弟に語り聞かせる。読みながら否が応でも不安が増す

 それでも四人が肩を寄せ合う暮らしには温もりを感じる。「外の通りは静まり返って真っ暗だ。しかしこの小さな家には明かりが灯り、清潔で輝くようなぬくもりが満ちいている」という一文は、渦巻く差別と貧困と迫り来る戦争の下であっても、四人の暮らす家には安らぎがあることを感じさせてくれる。


 この夜はソンジャとイサクにとって実質的な初夜でもある。二人に与えられた狭い部屋を作者が描き出していく間、私はソンジャと一緒になって、イサクと寝ることにドキドキする。「ふすまを透かして隣室の明かりがこちら側の部屋をほのかに照らしていた」と書かれるのを読むと、隣の部屋で寝ている兄夫婦に音を聞かれたらどうしよう、と意識する。ミン・ジン・リーは、ディテールを疎かにしない。初夜であればこういうことが気になるだろうなと思うことを一つ一つ書き記していくので、自分がそこにいるような気になる。一緒に布団に入る二人の様子は初々しく、清々しい。ここでも、ソンジャを取り扱うイサクの優しさがハンスの荒々しさと対比される。

「この人が自分の夫なのだ。これからこの人を愛していくのだ」という一文で章は幕を閉じる。

2022年11月11日金曜日

読書録:ミン・ジン・リー『パチンコ』(4) 11月7日(月)

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 ソンジャは寝床の中でハンスのことを考えている。家の中で寝床だけが一人になれる場所なのだろう。彼女の回想を通じて、彼女がいかに父親に愛されてきたかがわかる。たとえ貧しくても誇りを持って行動できるように彼女を支える父の愛について語る以下の文章は美しい。


「ソンジャは、父が母と自分に注いでくれる愛情を誇りに思った。裕福な家庭の子供が、父親からふんだんに与えられる米や金の指輪を誇りに思うように。」


 しかし、「それでもやはり、ハンスが忘れられなかった。」と心が揺れる。ソンジャは決して虚栄心に満ちた人間ではないけれど、そういう彼女でも広い世界を見たハンスの力に惹きつけられるのだ。


 この章で、イサクはソンジャに結婚の意思を伝える。二人は一緒に散歩に出かける。家の中ではプライベートな話ができないから。イサクとソンジャの散歩はあらゆる意味でハンスとサンジャの散歩と対照的だ。イサクは、ソンジャの後から着いて歩く。二人は日本人の食堂に入るが、イサクは日本人に適応することで認められ、その点でもソンジャを日本人による暴行からソンジャを助けたハンスと対照的だ。


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 本章でソンジャとイサクは結婚する。しかし、この章は幸せな章ではない。

 イサクはソンジャとヤンジンを牧師のもとに連れていくが、牧師はソンジャを問い詰め、まるでソンジャを苛めているように感じられる。それはイサクを思う心からだが、また、不義の子を宿した女性に対する社会のまなざしをも反映しているように感じる。また、牧師がソンジャに罪の許しを求めることを迫る様子に、クリスチャンの告解はむごいことに感じると言っていた知人の言葉を思い出す。

 この章でも、牧師を訪れる三人の服装、民族服の女性と洒落た洋服のイサク、を通じて3人の階級差を感じる。また、牧師のくたびれたスーツはやもめ暮らしの彼の生活を浮き彫りにする。なぜかカラーだけは糊がきいているというのは、彼の聖職者としての自覚を表しているのだろうか。

 何より娘に祝福された結婚式をしてあげることができない母ヤンジンが哀れだ。しかし、考えてみれば、様々な事情から不本意な形で娘を送り出さなければいけない親は、ヤンジンに限ったことではないだろう。結婚は幸せだとは限らないのだ。


第11章

 「下宿人はようやく根負けし、仕事着を洗濯のために引き渡した。染みついた臭いがひどくなって、当人たちにも耐え難くなったのだ。」と始まる本章は、結婚に向かう緊張感と日本に移住する緊張感の間の短い安らぎの章だ。嵐の前の晴れ間という感じ。ソンジャと使用人の姉妹たちとの無邪気な会話が心を和ませてくれる。ソンジャにとっては娘でいられる最後の時間でもある。しかし、章後半でソンジャは日本に向けて旅立つ。娘のために荷造りをしては、それをほどいてまた詰め直すヤンジンの姿に、娘を失う母の憤りが現れている。別れ際まで何か娘にアドバイスを与えようと話し続ける様も、母親ってそうだよなと思う。


第12章

 1933年4月大阪。一転して舞台は日本。

 大阪駅でイサクの兄ヨサプが弟夫婦を待つ場面から本章は始まる。

 ヨサプは工場の職工長だが「大阪のぱっとしない労働者の普段着風の格好」をしている。故郷では立派な仕立ての洋服を着る金持の家柄なのに、ここではそういう服装をしない。日本人の工場長よりよい服装をするわけにはいかないからだ。

 駅で待つ彼が久しぶりに弟に会えることに心弾ませながら、周囲の日本人の視線に緊張していることがわかる。見た目では日本人と区別がつかないが、一旦口を開くと朝鮮人であることが分かり、人々の態度が変わるからだ。「どうあろうとヨセプは朝鮮人であり、人柄がどれほど魅力的でも、悲しいことに、小ずるくて油断のならない民族の一員としか見られない。」

 ヨセプとイサクが再会し、3人がヨセプの住む猪飼野に移動する道中、ずっと3人の浴びる視線を思って緊張してしまう。ソンジャが民族服で一目で朝鮮人だと分かるから余計に。

 また、猪飼野の町も衝撃的だ。作者は、その臭い(獣臭が強く漂っている)、バラック建ての家屋、ぼろをまとう子どもたち、道で排便する子どもを描く。また、ヨセプは、近所の人たちとも喋るな、と言う。物を持っていると思われ、以前家じゅうの貴重品を盗まれたことがあったのだ。作者は五感に訴える細かいディテールを積み上げることによって猪飼野に住むとはどういうことかを私たちに知らせる。なぜ、彼らがそんな生活をしなければいけないのか、という疑問を私たちの心に起こす。

2022年11月9日水曜日

読書録;ミン・ジン・リー『パチンコ』(3) 11月6日(日)

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 舞台は下宿屋と海岸沿。

 イサクの肺炎が回復する。医者との会話を通じてイサクの人柄がより明らかになる。また、病弱だったイサクの過去が紹介される。イサクの思い出の中にリンゴが出てくるのが印象的。それは北国の象徴だろうか、魚臭い漁師たちと対比してイサクの爽やかさを強調するためだろうか。

 章の後半は、イサクが下宿の女将ヤンジンと海岸を散歩するのだが、第5章のハンスとソンジャの散歩と同様に男女対の散歩で、パラレルが感じられる。最初の散歩では海は 「輝いていた」のに、ここでは、「青と灰色の荒涼とした風景」と語られ、それぞれの散歩の異なる意味が際立つ。この作品では匂いの描写も多い。「海藻のよどんだにおい」という描写も気の重い散歩であることを表している。

 イサクとヤンジンの散歩でヤンジンは、悩み(ソンジャの妊娠)を打ち明けるのだが、会話を通じて二人の視点が交互に描かれるのも神視点のよさだ。イサクは牧師なので悩むヤンジンに神の話をする。作者のミン・ジン・リーが韓国人の話を書くのにキリスト教が出て来なかったら、その人は韓国文化を知らない偽物だと思うと語っていたが、実際、とても自然に神(聖書)の話が出てくる。

 印象的だったのは二人が会話を終えて帰路に着く章の最後。


 ーヤンジンは向きを変えた。イサクはその横に並んで歩いた。


 アメリカのカード屋さんでよく見かける、聖句や詩を書いたカードで「Footprints」という詩のものがあるのだが、その詩を思い出させる。以下に引用する。


One night I dreamed a dream.
As I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
One belonging to me and one to my Lord.

After the last scene of my life flashed before me,
I looked back at the footprints in the sand.
I noticed that at many times along the path of my life,
especially at the very lowest and saddest times,
there was only one set of footprints.

This really troubled me, so I asked the Lord about it.
"Lord, you said once I decided to follow you,
You'd walk with me all the way.
But I noticed that during the saddest and most troublesome times of my life,
there was only one set of footprints.
I don't understand why, when I needed You the most, You would leave me."

He whispered, "My precious child, I love you and will never leave you
Never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints,
It was then that I carried you."


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 再びイサクの章。回復したイサクは、釜山の教会を訪ね、そこで神父に自分の決心を相談する。本章で、ソンジャは章を縁取るように冒頭と最後にしか登場しない。しかし、イサクと神父の話はソンジャについてのもので、ソンジャのいない場所でソンジャの将来が決められていく。

 今までもそうだったけれど、この章は特に劇の舞台を想像させる。

 舞台中央でスポットライトの下にイサクが立ち、舞台脇の暗がりでソンジャが何も知らずに洗い物をしている。

 章の後半、イサク帰宅後の様子もそうだ。イサクは下宿人たちと居間で団欒する間、ソンジャは台所で片付けをしている。表(居間)の男たちの世界と裏(台所)の女たちの世界がある。『ダウントンアビー』で上階と下階で主人一家と使用人の世界が分断されているのと似ている。また、楽しげに騒ぐ下宿人たちに対して女性たちは裏で静かに声なく働いているのも象徴的と思う。

2022年11月7日月曜日

読書録:ミン・ジン・リー『パチンコ』(2) 11月5日(土)

 115日(土)

第5章

 

 ソンジャとハンスの関係が深まっていくこの章は自分自身の恋愛経験を思い出して苦しくなり、一旦本を置かなくてはならなかった。

 あまりに自分のことのように感じたので、作者はここに書かれたような恋愛を経験したことがあるのだろうか、と疑問に思った。でも、少し経って読み返しながら考えてみると、別にハンスのような男性に恋をしたことがなくても、人に惹かれる気持ちは共通するものであることとともに、私が本章で描かれたソンジャの経験に自分の経験を重ね、書かれている以上の意味を読み取っているのだと気づいた。恋愛で経験する高揚感の全容を言葉で再現することはできない。でも、並べられた言葉によって読者の想像力を喚起することはできるのかもしれない。

 コ・ハンスはソンジャにとって力の象徴であると同時に見たことのない広い世界の象徴であり、ソンジャはコ・ハンスにとって失われた純真さの象徴だ。ソンジャの目を通して、コ・ハンスが少年の顔に変わっていく様子が描かれる。

 第5章は、夢のような気分に浸れる束の間の喜びの章だ。コ・ハンスとソンジャは、海辺、そしてきのこ狩りの森で逢引するのだけれど、その一瞬一瞬が光で満ちて輝かしい。「海辺の景色は見たことがないほど輝いていた」と書かれるように景色までが輝き、浮き立つ二人の気持ちを表している。

 特に二人がきのこ狩りで出かける森は聖域のようだ。

 聖域の中で二人は階級差も気にせず、ソンジャの貧しさも、コ・ハンスの後ろ暗い過去も、日本の植民地支配も気にせず、好きな人と時間を共有する純粋な喜びを味わう。


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 第6章では、喜びが一瞬にして悲劇に転ずる。

 それは、二人が、相手は自分と違う世界に生きているのだという現実を突きつけられ、夢から転落する瞬間だ。

 本章ですばらしいと思ったのは、ハンスが妻帯者であることを知ってショックを受けたソンジャに拒否されたハンスが、咄嗟にソンジャを貶めるようなことを言った後、自分の言葉の残酷さに気づくこと。作者はハンスを一方的な悪者に描かず、彼をも同情心を持って扱う。ソンジャが傷つくであろうことを思い及ばずに、彼女を愛人にすることを当然のように考えるハンスは確かに傲慢だが、それでも、彼の限られた世界観の中で彼女を確かに愛していたし、責任を持って彼女の面倒を見るつもりでいたのだと思える。


2022年11月6日日曜日

読書録:ミン・ジン・リー『パチンコ』(1) 11月4日(金)

11月4日(金)

第一部 故郷(コヒヤン) 一九一〇ー一九三三年

 この日、ミン・ジン・リー著『パチンコ』を読み始める。


ーHistory has failed us, but no matter.

ー歴史が私たちを見捨てようと、関係ない。


 小説はこの一文で始まる。第一文は全体の論題(thesis statement)なのだとミン・ジン・リーは言う。歴史は勝者の物語しか残さないから、コリアンも日本人も見捨てられた、でも、大事なのは「no matter」の部分なのだと。


第1章

ー新世紀が幕を開けるころ、老年期を迎えた漁師夫婦は、家に下宿人を置いて稼ぎの足しにすることにした。

 論題が提示された後、段落が変わり、物語が幕を開ける。年老いた漁師夫婦が登場するこの文は「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」という聞き馴染んだ文章を思わせる。下宿屋を営む貧しい老夫婦が口唇裂と内反足を持った長男フニを育て上げ、彼が結婚して子どもを持つまでを語る第1章は、1910年に日本が大韓帝国を併合したという歴史的事実を参照はするけれど、全体として昔話を思わせる寓話風の語り口で書かれている。

 実直で優しい老夫婦とフニ家族を描く著者の筆は著者自身の人柄を表すように丁寧で温かい。作品を読む際に人としての作者に対する好き嫌いは関係ないと十分に理解しているけれど、この作品は、You Tubeで見たミン・ジン・リーに好印象を持ったから読もうと思ったのだし、文章の一つ一つに彼女の人柄が反映しているような気がしてならない。それほど、一人一人の登場人物がに対する視線が、いい人に対しても悪い人に対しても、温かいのだ。読んでいる私もすべての登場人物に愛しさを感じずにはいられない。

 本作の出版当時、マイノリティをテーマとして話題を狙った派手派手しい作品と作者を想像して、読む気になれなかった。でも最近、インタビューでミン・ジン・リーが話すのを聞いて、予想とは全く異なる温かさと思慮深さに惹きつけられた。そのような女性によるそのような考えに基づく作品なら読みたいと思うようになった。読み始めて、自分の期待を上回る深くて読み応えのある広い視野の小説であることを発見して嬉しい。


第2章

 一九三二年一一月。物語は日本が満州を占領した年に飛ぶ。

 正確な年号が与えられ、物語は一転して現実味を帯びて動き出す。フニは亡くなっており、未亡人ヤンジンが下宿を切り盛りしている。

 昼夜交代で寝る6人の下宿人を置き、二人の姉妹を手伝いとして雇っているヤンジンの元に一人の若い男性が宿を求めて訪れる。

 この章、人物描写が温かく丁寧であるだけでなく、ヤンジンたちの置かれている経済的状況や客人との階級差が、物語の流れを損なわない形で誤魔化しなくしっかりと描き込まれている。彼女たちの生活が実感できる。どうやってそんなことを成し遂げているのか、一文一文読み直してしまう。ディテールが利いているのだと思う。下宿代でいくら取っているか、どのようにやりくりしているか、生活実感を伴って書かれているし、客人の服装を通じて階級差を思い描くこともできる。そういったことを何一つ見逃さない作者の敏感さを感じる。


第3章

 疲労困憊して宿に辿りついた客人イサクがどうなるかと気をもんでいると、彼が肺炎であることが判明し、しばらく滞在することが決まる。また、今まで背景にいたソンジャにスポットライトが当たり、彼女の抱えている秘密が明かされる。その話の持って行き方が、omnipotent(神視点)の利点を活かしたもので、炭屋のチャンさんの相手をしていたヤンジンが、チャンさんが帰った後に視線をソンジャに移し、ソンジャについて考える中で、ソンジャの人となりが語られるという手法をとる。


第4章

 物語は6ヶ月前にフラッシュバックする。

 第2~3章は下宿が舞台でヤンジンが中心だったが、第4章ではソンジャが中心になり、舞台は市場に移る。

 下宿(中)の世界=ヤンジンの世界 VS 市場(外)の世界=ソンジャの世界という対比が見られる。ソンジャにとって、母の目が及ばない外の世界は危険な場所であると同時に、自分になれる自由な場所でもある。その外の世界で彼女は男性(コ・ハンス)と出会う。その出会いの場面がBook Exploderポッドキャストでも取り上げられ、そこでミン・ジン・リーは、仲買人ハンスについて、彼の服装、西洋風のスーツに白い靴、が彼の力を表していると語っていた。汚れやすい市場で平気で「白」を着られるのは、何着も換えを持っている金持ちの印なのだと。この段落で作者は、漁師や漁船の船長に対する仲買人の絶対的な力を語る。ここでも彼女がいかに階級差や力関係に敏感かが現れている。また、ハンスの持っている男として持つ力のセクシーさ、それが貧しく実直なソンジャに持つ魅力、反対に、まっすぐなソンジャがハンスに対して持つ魅力も生々しく想像ができる。

 仲買人コ・ハンスの力は、現在読んでいるアイヌの話にも重なる。松前藩がアイヌとの交易を独占した結果、値段や誰と交易するかの力がすべて松前藩の手に落ちた。和人との交易に依存するようになったアイヌは、松前藩の言いなりにならざるを得なかった。蝦夷でも朝鮮でも同じような構造ができあがっていたのだろう。


2022年9月19日月曜日

ウェブ媒体で書くことで見えたことーあるいは、不安とのつき合い方

 4月22日から9月9日までの三ヶ月半、人格OverDriveというサイトで10回に渡る連載をした。

 連載のタイトルは「孤独の座標」。現代社会で一人で生きることについて考えるエッセイだ。従来の家族モデルが崩れた現在の生き方を考えたかった。そのために自分を実例として用いた。

1)どこまで自分を見せるのか

 社会の見え方は、個人によって異なり、その人の経験、階層(=社会文化的背景)に大きく影響される。読者の階層や背景は私とは異なるので、私がどこから来ているのかが読者にわかるように、できる限り自分の背景を開示することに努めた。文章の内容と文脈を同時に読み取れるように書こうとした。そうすることが最も公平な書き方だと思ったからだ。これは、出版物の読者だった若い私が、文章には作者の背景があることを知らずに、登場人物に自己同一化して文章を読み、登場人物のようになろうとしてなれない自分に落ち込んだ経験が幾度となくあったからだ。

 しかし、自分を見せることは怖い。特に今回は自分の内面を掘り下げて書いたので、自分の体の一部を切り刻んで知らない人々に分け与えているような気持ちになった。暗闇に向かって書いていたわけだが、暗闇に魂を吸い取られているような感じがした。今回は10回という短さだったため、自分の全てを出し尽くしたわけではないが、もし自分を全て出し尽くしてしまったら、しばらく立ち直れなかったかもしれない。

 文章上での自己開示は、実人生で知り合いに自分を開示するのとは異質な出来事だ。私も連載で書いたようなことを同僚や友人に話したりはしない。だからだろうか、連載を読んだ元同僚から驚かれ、心配されもした。私が悩みを抱えていると思われたのだ。正直、心外だった。文章上の自分と実人生の自分とは、私の中では切り分けられているからだ。

読書録:ミン・ジン・リー『パチンコ』(6) 11月11日(金)

  11 月 11 日(金) 第 14 〜 15 章 第 14 章  イサク、勤め先となる教会を訪れ、困難な現実に直面する。  イサクが訪れるとユ牧師が姉弟間の争いの仲介をしている。ユ牧師が、姉弟に対しては思いやり深く、イサクの尊敬を誘うのに、二人が帰ると現実的で冷ややかな態度に...