2020年1月26日日曜日

場所と記憶(2020年2月1日更新)




最近、雨が降ったり、よほど疲れているのでない限り、週末の朝は川べりを散歩することにしている。ジョギングシューズを足になじませ、軽くストレッチをしてから、背中を伸ばして腕を振り上げ、勢いよくふみ出す。向かうのは駅と反対の方向。駅側を家の表側とすると、家の裏側に広がる裏庭のような地帯だ。住宅のあいだを抜け、化学会社の広いグランドの横を通って堤防を上って川に出る。


歩きながらポッドキャストを聴くことが多い。お気に入りはNYタイムズのThe Dailyと同じくNYタイムズのBook Review。もともと英語の練習のつもりで聞いていたところもあるけれど、話が面白いので、好んで聞く。ニュースというのは楽しいものではないけれど、国内の身の回りのニュースを聞くより海外のニュースを聞く方が距離をもって見られるので、狭さを感じないからというのもある。

2020年1月11日土曜日

中身の空っぽさは、克服できるのか



ものや人について「中身がない」というとき、そこには軽い侮蔑の念が含まれている。その言葉は、対象が軽薄で信頼に値しないことを含意する。

確かに中身がないものは人を興ざめさせる。しかし、気がつけば私自身が誰よりも空っぽなのだった。その自覚は、自己嫌悪の波となってわたしを襲う。

自分の空虚さに対する自覚は早くは学生の頃からあった。大学2年の冬に洗礼を受けたのも、一つには、その自己嫌悪に突き動かされてのことだった。変わりたかったのだ。しかし、信仰生活はさらなる中身の空白化を招いた。こんなことを言うと多くの信仰者は憤慨するだろう。信仰のあり方は多様なのだから、皆が皆空っぽなわけではないと思う。しかし、信仰が中身の空白化を招くと言うにはそれなりの理由がある。宗教はよくできたものであればあるほど、自己完結する論理構造を持っている。批判的に教義を突きつめる信仰者もいるだろうが、一般的にはそうしないだろう。その論理構造を疑わないことが信仰の平安をもたらすからだ。また、信仰のおおもとを疑うことは信仰の正当性を覆し、信者コミュニティのなかでの信仰者の居場所を危ういものにしかねない。

私にとって、信仰生活が不可避的に中身の空白化につながったのは、考えるよりも行動することを重んじ、知識を軽んじる(時には疎む)信者集団の傾向と、信仰の中にこそ答えがあると信じ、信仰を実践することに意義を感じ、時間のかかる勉強に真剣になれなかった私自身の軽薄さとが、不幸にも合致したからだった。このような傾向は宗教にかぎらず、他の若い人の活動のなかにも見られることは付言するまでもないだろう。

私が自分の中身のなさを嫌でも痛感させられたのは、大学を卒業して社会人になってからのことだった。新社会人としての日々は、信仰と善意だけでは責任をもって仕事を前進させることはできないという事実を身をもって経験する日々だった。

ここでもまた、中身のなさに対する自己嫌悪が変化の誘因となった。私は、何かの専門知識を身につけて専門職につこうと思って仕事を辞めた。

前置きがだいぶ長くなった。「何かの専門知識を身につけて専門職につこうと思って仕事を辞め」てからもう15年が経つ。その間、数年かけて国家試験を受験するとともに、大学に入りなおして化学を勉強し、ついに化学専門とする弁理士となった。

そこで最初の問いに戻る。すなわち、中身の空っぽさは、克服できるのか。

この問いは「中身」とは何かという問いを含むとともに、より具体的な次元では、「専門家」とは何かという問いにも関わる。

「中身」を「知識」に限定してしまっていいのかという疑問は残るけれど、「知識」がその主要な部分を占めることは疑いないだろう。また、知識を伴わない中身もなさそうだ。ただし、その知識は何でもいいわけではない。雑学に長けた人を私たちは「中身がある」とは言わない。知識の理解が必要だし、深さが求められる。しかし、「理解」という言葉も「深さ」という言葉も抽象的だ。そこで、仕事の場という具体的な例に限定して「中身」とは何かを考えたい。すると、そこには一人の専門家の像が浮かぶ。その専門家は何を聞いても的確に答えてくれる。アクションを起こす場合にあらゆるケースを想定して、最善の道を示してくれる。また、何を求めているかを顧客自身が分からない場合であっても、何を求めているのかを見抜いて提示することができる。彼/彼女にまかせておけば必要なアクションを取ってくれるだろうと信頼できる。

この専門家の像を考えることで、専門家の中にある知識がどういうものかを推測することができる。どのような問いにも答えられるほどの知識、あらゆるケースを事前に想定できるための知識。そのような知識とは一体どういうものだろうか。

ある哲学者の言っていた「世界史のマップ」という言葉を思い出す。世界を認識するための「マップ」だ。彼は、古典はその中に多くの議論を宿しているので、古典を読むことがマップを作るための訓練になると言い、「世界観」という言い方もしていた。彼のこの言葉に納得するのは、同業者を見ていて、仕事ができる人は、「マップ」を持っているように見えるからだ。法律家にとっての「マップ」は法律(審査基準を含む)と判例だが、彼らはどこからスタートしても、法律に結びつけることができる。あるいは、大学で取った応用物理学の授業の先生を思い浮かべる。彼は、どのような角度からの質問に対してでも原理から説き起こして説明してくれた。彼はそれを「ストーリー」と呼んでいたが、それは物理に関する「マップ」と言い換えることもできる。どこから入っても、原理から説明する道筋を見つけることができたのだ。彼のことをよく覚えているのは、大学で教わった先生方のなかで私の疑問に納得のいく答えをしてくれたのは唯一彼だけだったからだ。彼は自分のことを物理のプロとも呼んでいた。

このように見てくると、私にとっての「中身」とは職業上の専門の「マップ」を持つことだと言えそうだ。この「マップ」を形成する知識は非常に特化した具体的なものだ。それは法律の条文であり、審査基準であり、判例であり、あれこれの公的文書だ。と同時に、それは高分子の知識であり、無機結晶の知識であり、抗がん剤の知識だ。(あくまで私の場合は。職業ごとに必要とされる知識の範囲は違うだろう。)それは、「中身」として当初想像していた内容よりもだいぶ狭く感じられるが、あれこれ広く知っていても、幹となるものがなければ、それらの知識はなんの意味もない雑学に過ぎないのだから、狭さは必要条件なのだろう。知識を深めて専門を形成するためには狭い領域を掘り下げるしかないようだ

したがって、「中身の空っぽさは、克服できるのか」という問いに対しては、自分を狭くすることによって可能だと考えるしない。その方法についても考えているが、この文章が予想外に長くなってしまったので、またの機会に書こうと思う。




2020年1月4日土曜日

2020年は中身を磨く年にしたい


長期休暇は、考えごとに時間を費やすのにうってつけだ。この冬休みも、日記帳を前に長々と考えにふけった。今年の目標を見定めようとしてのことだった。「目標なんて何も思い浮かばない」というのが最初の感想だった。仕事上の地位とか、関係の変化とか、外から分かるような、ラベルがつけられるような目標は特にない。無理に作るのもおかしい。これからの一年は今やっていることをコツコツと続けていくこと以外にはないと思う。

しかし、だからといって何も望んでいないわけではない。ただ、その望んでいることを言葉に落とせていないのだ。それは、求めているものがラベルづけできるようなものではなく、中身の問題だからだ。中身を磨きたいというのが現在の私の一番の欲求だ。ただ中身を磨くことを、その中身が何かを考えずに漠然と求めても、どのように努力すればよいかは見えてこない。中身を磨くこと一つにも、具体的な目標は必要だ。

第一に、その中身が何なのかを特定しなくてはいけない。ここで多くの願望が我先にと突き上げてくるが、それらのうちの何がより優先されるべきことなのか、何が達成可能なのかを、偏見のないクリアな目で選りすぐらなくてはならない。仕事が始まって忙しくなればおのずと限定されてこようが、判断もできなくなるほど忙しくなる前に見通しを立てたい。せめて方向性くらいは定めたい。

第二に、中身を測るための指標が必要だ。中身を<知識>と考えれば、形式的な目標を定めることは無理な話ではない。以前、ある教育者が「その分野の専門書を100冊読んで(原稿用紙)100枚の論文を書くこと」と言っていたのを思い出す。そのようにインプットとアウトプットを数値化することは可能だし、そこから始めることが最短経路に思える。

中身の一つはすでに決まっている。癌の免疫療法の一種、CAR-T細胞療法だ。これは、翻訳勉強会の題材として取り上げたもので、勉強会のために勉強しなくてはいけないのだから、その延長線上でテーマ自体を深く調べることは自然なことだ。また、このテーマは、技術的な知識を必要とする私の職業上のニーズとも合致する。しかし、私の職業上のニーズという意味では、技術的な知識とともに法律的な知識も必要だ。そこでの勉強課題は明確だが、しかし、技術的な勉強と法律的な勉強をともに「その分野の専門書を100冊読んで(原稿用紙)100枚の論文を書くこと」というレベルで行うことは可能なのだろうか。あるいは、これらの二つのテーマを結びつけることはできないのだろうか。例えばがん治療における特許性というように。しかし、たとえそうするにしても、それぞれのテーマをその範囲内でそのテーマが要求する程度まで勉強することは必要だ。つまり、同時並行で、または時期を区切って、二つのテーマをそれぞれ勉強しなくてはいけない。

結局私に必要なのは、中身を磨くことよりも、あるいはそれ以前に、中身を作ることなのだろう。知識をつけることは、今までになかったものを自分のなかに取り込むことなのだから。それは、空っぽな自分の空っぽさを埋めることだ。時間のかかることだけれど、観念して時間をかけることが今の私に必要とされているのだと思う。この冬休みは、そのこと(時間をかけて知識をつけなくてはいけないということ)を認めるために必要な時間だったのかもしれない。元来、ほしいものはすぐ手に入らないと耐えられず、次から次へと興味が移る性質だから。一つのことをマスターする前に、あれもこれもとほかのことができるようになりたくなり、結果的に、何も身につかないというのが私の繰り返すパターンだ。一つのことに自分を制限することが難しい。だから、目標を立てるのにもてこずったのかもしれない。

さて、中身を磨くことについて、知識をつける以外の欲求もある。それは、<感性>を磨くことだと、とりあえずは言う。昨年末、クリスマスパーティで友人と話し、また、NY Timesの書評家パール・セガールの文章を読みながら、その思いを強くした。パールは書評家として表現、特に形容詞、が枯渇すると、音楽や食べ物を批評を読み、「美味しい」表現を蓄積すると言っていた。上記した知識をつけるための勉強や読書以外にさらに何ができるのだろうかとも思うけれど、せめて日々の中で自分が美しいと思う文章を読み、それをまねることはしたい。<感性>を磨くことは自分の身体を作り替えることだ。少なくとも私はそう思う。そのためには日々、自分の身体に言葉を刻印していかなくてはいけないのだと思う。

「目標なんて何も思い浮かばない」と思っていた割には、充実した構想を練ることができた。書くことを通じて、目標がより明確になった。ここで文章を閉じることにする。 (更新:2020年1月6日



身を切るエッセイ漫画 永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』

作品の帯にはこう書かれている。 「高校卒業から10年間、息苦しさを感じて生きてきた日々。 そんな自分を解き放つために選んだ手段が、 「レズビアン風俗」で抱きしめられることだった―― 自身を極限まで見つめ突破口を開いた、赤裸々すぎる実録マンガ。」 大学があわなくて中退して以来、アル...