2019年9月20日金曜日

つかめるようでつかめない

私という人間のなかには色々な要素がある。それらの要素は、時宜に応じて表面に現れ、必要がなくなると姿をかくす。それらの諸要素が、私という複雑な迷路のどこに潜んでいるのか、どうすれば呼び戻せるのか、私にもわからない。その隠れ場所はどんな地図にも示されていない。その存在さえ、時がたてば忘れている。

しかし、何かの突発的な事件によって、ある要素が呼び覚まされることがある。蔦谷匠さんの文章は、私のなかの閉ざされた部分を開く、ひとつの触媒だった。特に、「ぬかづき」というペンネームで「アパートメント当番ノート31期」というページに書かれた彼の文章を読んでいるうちに、まるで記憶喪失から回復するかのように、ここ数年失っていた自分の一部がよみがえってきた。


「ここ数年失っていた自分の一部」に名前を与えるとしたら、それは「感性」または「感受性」と呼ぶべきものだ。漠然としていて、つかみづらく、言葉できっちりとその境界をはかり固定することはできない。空をただよう雲のように、つかもうとすると指のすき間から逃げてしまう。


でも、ぬかづきさんの文章を読んでいるうちに、眠っていた感覚が呼び覚まされた。春の訪れとともにどこからともなく芽吹く緑のように、眠っていた感覚が徐々に頭をもたげた。それはまだ弱々しく、か細い触手をおそるおそる空に伸ばしている。実際、そこにある微弱な感覚を拾いとるのは困難だ。じっと集中して自分のなかをのぞき込んでいないと、ほかの分かりやすい刺激に簡単に引っぱられてしまう。

「アパートメント当番ノート第31期」のぬかづきさんの寄稿をひとつひとつ読んでいくと、共通する雰囲気があることに気づく。どの文も、大きな事件のまわりをめぐっていない。出来事の面白さを駆動力としていない。むしろ、彼にしか分からない個人的な感覚を記憶のなかから引き出している。一見何もしていないかのような、名づけられない時間のなかで、筆者の感覚は生きていて、感じている。その感覚の豊かな記憶が私の感覚を呼び起こす。


ぬかづきさんは雨が好きだ。雨の音、そのにおい。そういったものが彼の記憶のなかにしまい込まれている。歩いて、自転車に乗る。名づけられない時間。カレンダーのなかの空白。

そのような空白を感じる感覚、感性を私はながいこと失っていた。意識的に捨てた面もあるし、知らないうちに失われていた面もある。


自分のなかから感性が失われた理由はなんとなく分かる。意識的な面でいえば、キャリアを得るために必死にならないといけなかった。受験勉強、仕事をしながらの学位取得、職場でのトライアル。必然的に目標達成志向のマインドセットになる。時間の使い方が計画的になるし、無駄をなくすことが善となる。勉強に疲れたときも、いち早く疲れを取ろうと、分かりやすい娯楽に向かう。細やかな感覚を味わうよりも、外から刺激を与えてもらうほうが楽だから。それは結果を得るために必要な態度だった。ただ、その過程で、目標達成に結びつかないものは切り捨てられる。

それとともに、感性に価値をおく人が周囲にいなかったことも一つの原因だと思う。仕事をしながら受験勉強をしたり大学に通ったりすると、人と交流する時間がほとんどないため、人間関係がきわめて狭くなる。そして、私の周囲にいた数少ない人々は、実際的でないもの、言葉にできないようなあやふやなものに価値を見出さない人ばかりだった。特に一番影響を受けた人がそうだったので、知らないうちに、自分のなかの感覚的な部分にアクセスしなくなっていた。使われない筋肉は退化する。同じように、接続されない感覚はしなびる。

「感性」は人に備わっているものだから、人と共有するのは難しい。たとえ言葉で説明することができたとしても、同じ感覚を分け与えることはできない。それは、持っているか持っていないか、そのどちらかしかないという類のものだ。だからこそ、感性の通じる人に出会うと嬉しくなる。今回、ぬかづきさんの文章を読んだときのように。「雨の匂いは豆の匂い」を読むと、彼がパートナーのなかに感覚を共有できる相手を見出しているのが分かる。羨ましく思う。素敵な話なのでここに転載する。

 今なら、自分以外の人がこの匂いを認識しているのか、しているとしたら、その正体をどう認識しているのかがわかるだろうと思って、隣を歩いているRに尋ねてみる。
 「この匂い、なんて呼んでる?」
 「この匂い、だよね? 雨の匂い、かな」
 答えを聞いて、わたしはこの人と一緒になって良かったと、なんだかそう思ったのだった。

ところで、この文章を書きながら、私の一部が失われたもう一つの理由に思いいたった。文章を書かなくなったからだ。何かを感じることと、それを文章によって再現することは、二つの異なる事象だと人は思うかもしれないけれど、私にとっては切り離すことのできないものだ。いい文章を書きたいから感覚を磨く。文章を書くために、生きた感覚を思い起こそうとする。記憶を蘇らせながら文章を書くことは大変な作業だ。集中力が必要だし、時間がかかる。大きなエネルギーを使う。だから、書かなくなってしまったのだと思う。



自分のなかの諸々の要素を生かし続けようと思ったら、努力しなくてはいけないのかもしれない。そうしなければ、どの要素も簡単にしなびてしまう。

なんだか茨木のり子の詩『自分の感受性くらい』を思い出す。

そして今、「アパートメント当番ノート第31期」を読んで、私のなかで何かうずくものがある。それはまだほんのかすかな胎動だ。でも、忘れないうちに書き留めておきたい。そこで読んだ文章への、ひとつの応答として。

境界性人格障害当事者の記録 悠風茜『自殺依存』

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