2019年10月27日日曜日

可もなく不可もなく


可もなく不可もなく。突然このタイトルが思い浮かんだ。

最近起きた個人的な大ニュースについて、どう捉えたらいいのだろうと考えこんでいた時のことだった。もともと考え込むようなことではなく、気持ちをおさえられないほど興奮していた。でもすぐに、私のこのあふれんばかりの気持ちは人には伝わらないのだと気づいて、行き場をなくした感情が爆発しそうになっていた。


私にとっては大きな意味のある重大なニュースなのに、ほかの人にはただの些細な出来事にすぎない。そう思うと、それは違うんだ、と訴えるような気持ちが昂ぶり、言葉があふれでた。しかし、どんなに言葉を尽くしても、私にとってのその出来事の意味は人に伝わるものではない。そのギャップをどう受けとめたらいいのか答えを求めていたときに、「可もなく不可もなく」という言葉がふっと現れた。そして、その言葉は遠近法をもって状況を眺めることを可能にしてくれた。

可もなく不可もなく。実際にそうなのだ。私にとってのそれらの出来事は。

最も大きなニュースは弁理士採用が決定したこと。2011年に弁理士を目指して勉強を始めてから8年目にしてやっとだ。弁理士試験に合格して、弁理士として働きたいという希望を雇用主に伝えてからも4年の月日が流れた。その間、化学の学位が必要と言われて(私は化学班に所属していたため)夜間で大学に通い、やっと卒業してもすぐには弁理士として認めてもらえず、先が見えないまま努力を続ける日々が続いた。

その日、総務の人に呼ばれて弁理士採用が決まったと言われたとき、信じられないような気持でボーっとしてしまった。嬉しさで午後いっぱい仕事が手につかなかったほどだ。ほかの多くの人にとっては、単に弁理士として採用されただけのことであり、通常はもっと簡単に採用に至るものだけれど、文系で化学のバックグランドがなかった私は思いのほか時間がかかってしまった。しかも、大学卒業後、弁理士として採用してよいかどうか評価するための試用期間は、自分がどう評価されているのか分からず、毎日びくびく過ごしていた。


目標が達成されたことは、ながい忍耐の賜物なのだ。

でも、別の見方をすれば、ステータスこそ変わるけれども、それによって何かが大幅に変わるわけではない。給料がそんなに上がるわけでもないし、急に仕事ができるようになるわけでもない。実際、採用決定の知らせを受けた翌日に一日がかりで提出した仕事は、私の考えた案が間違っているとダメ出しを受け、落胆した。

若いときに好きだった『サイファ』という漫画を思い出す。俳優のサイファは、自分の役が批判されるとスタッテンアイランドフェリーにのって自由の女神を眺めに行く。「始まりはいつもゼロ」と心のなかでつぶやきながら。「サイファ」とは「ゼロ」という意味なのだ。いいときも悪い時も、ゼロに戻ること。それって、「可もなく不可もなく」と同じ心の態度を指しているのではないだろうか。

私にとって、確かに、長年の目標は達成されたけれど、それは初めの一歩にすぎず、一人前になるには程遠い。何も終わってはいないのだ。目標を達成した高揚感はつかの間のことで、気を取り直して次の目標に向かってまた歩き始めるしかない。そして、結局ハードワークしかない。


最近遂行した引っ越しについても同じことが言えそうだ。新しい部屋に移って自分の思い通りの家を整えられることに興奮したけれど、その高揚感はつかの間のことで、色々な問題点が見えると失敗だったのではないかと気分が沈む。家具が失敗だったのではないかとか、町があまりオシャレではないとか、職場から遠いとか。大きな出来事なだけに感情の振幅も大きい。でもそれも距離をおいて眺めれば、「可もなく不可もなく」と言えることではないだろうか。必要なのは良い点と悪い点を冷静に眺めて受け入れること。そして、住みやすい家になるように努力すること。それしかないのだ。

2019年10月18日金曜日

うさぎの穴とマイ・ワールド


子ども時代に多くの引越しを経験した人とずっと同じ町で育った人とでは、世界の見え方がまったく違うだろうと想像する。学齢期に海外暮らしと帰国後の適応の難しさを経験するなかで、引越しをしたことがない子の世界の揺るぎなさをうらやましく思った。引越すたびに、すでにできあがっている関係の輪のなかにどうやって入っていけばいいのか途方に暮れ、新しい世界のルールを理解することに苦労しながら、他の子たちから見える世界はどのようなものなのだろう、と不思議でならなかった。

だからといって、引越しが悪いことばかりだったわけではない。私が豊かな物語の世界にひたることを覚えたのは、引越しのおかげだ。特に小学校1年のときの海外移転は、どんな冒険物語にも負けない冒険の世界に私を引き入れた。何もわからない未知の世界に踏み込むことは恐ろしいことであると同時に驚きに満ちていた。右も左も分からず、言葉も通じない世界だからこそ、感覚が鋭敏になっていたのかもしれない。それは『宝島』の小説を読んだときの気分に似ている。見慣れたものが何もない世界に放り込まれて、危険と隣り合わせで絶えずひやひやしているかと思うと、目がくらむような眩い宝に囲まれる。すべてがカオスで、そこにどのような論理が通っているのか見当もつかない。あるいは、うさぎの穴に落っこちたアリスのようでもある。まったく筋の通らない世界で混乱の渦に飲み込まれる。そのような世界に生きていると、否が応でも想像力がたくましくなる。想像力を膨らませることによって、分からないことを補うしかないのだから。言葉が通じず何が起きているか分からない世界ではトイレに行くことさえ冒険だ。通い始めた現地校で、トイレの前までたどり着いたのに、男子トイレか女子トイレか分からず、途方にくれて立ち尽くしたことを覚えている。


アメリカに引越したとき、最初に降り立ったのはサンフランシスコだった。当時の私は、サンフランシスコと聞いて、油が流れる坂道を皮革のブーツをはく大柄な人々が闊歩する町を思い描いていた。西部劇の世界に放り込まれるような気持でいたのかもしれない。サンフランシスコで泊まった宿は、薄暗く、古びていて、エレベーターはガタガタと音がした。今にも物陰からギャングが飛び出してきそうで、私は気が気ではなかった。6歳の私にとって、すれ違う非アジア系の人々は皆、私を襲おうと狙っている悪者に見えた。

サンノゼの新しい家に移り現地校に通い始めたあとも、言葉が分からず、何が起きているかさっぱり分からない状態が続いた。赤ん坊が言葉を覚えるまでも同じようなものなのかもしれない。それは世界が意味を失った状態、つまり、カオスのなかを漂う状態だった。だからこそ、あらゆる場所に想像の世界への入り口が転がっていたともいえる。

その期間を通じて私には架空の小人の友達がいた。未知の土地へ引っ越す怖さ、何が起きるか分からない怖さも彼らがなだめてくれた。彼らは白雪姫の七人の小人たちのように私を取り囲み、私に勇気を与えてくれた。よく彼らと一緒に町を探検した。町といっても、せいぜい自分の住む道(Ariel Drive)の角までだったけれど。不思議とそのあたりでは、登下校時間を過ぎると町はしーんとして人気がなくなった。子どもたちは、塀で囲まれた裏庭で遊んでいたのだと思う。

想像上の小人たちはやがて実際の人形に姿を変えた。マリちゃん、アンソニー、キンバリー、人形たちは一人ひとり名前を持った特別な存在だった。彼らが特別だったのは、忠実な友だちでいてくれたからではないかと思う。私は、お話をつくって人形たちと遊ぶことを楽しんだ。やがて現実の友達ができて一緒に遊ぶようになったあとも、どれだけ面白いお話をつくれるかは大切なポイントだった。子どもの遊びというのはすべて物語をつくることの上に成り立っていることを思えば、物語をつくる能力に特別な価値をおいていたのも当然のことと思える。私は、心のどこかで、想像の世界を共有できる人こそが真の友達だと思っていた。

 *サンノゼで住んでいた家。当時は家はベージュ色で、前庭も芝生ではなかった。

サンノゼに住んでいた頃、毎週土曜日にはスクールバスで1時間ほど離れたサンフランシスコの補習校に通っていた。多分、現地の高校の建物を借りていたのだと思う。6時ころに起こされ、弁当を持たされ、スクールバスの停車場まで車で送ってもらう。そこから友達とバスに乗り込んで補習校に向かう。補習校の記憶はおぼろげにしかないけれど、そこでありさちゃんという友だちと出会ったことを覚えている。彼女はまさに想像の世界を共有できる人だった。私たちは、始業前には、補習校の校庭の広場になった場所でバレーごっこをして遊んだ。白鳥の湖とか、くるみ割り人形とか、自分たちで勝手に振り付けを作って踊るのだ。人が通るのも構わず。そして、ありさちゃんもサンノゼ方向に住んでいたので、下校時にはバスで隣の席に座って、互いに小説を書きあった。1時間のバス旅の間にそれぞれの小説を書き上げ、降車場につく前に交換する。すべての子どもがお話を書くことを好むわけではないので、そのような友だちがいてラッキーだった。

実は、サンノゼ-サンフランシスコ間のバス旅が好きな理由はほかにもあった。バスが通ったのは、ハイウェイ101だったと思う。親から離れて子どもだけで隣町まで旅するというのはそれだけでドキドキする冒険だったが、私は窓の外の風景にいつも魅了された。サンノゼからサンフランシスコにいたるハイウェイはなだらかな丘に囲まれていて、そこに牛が放牧されていることもあった。サンフランシスコに近づくと、辺り一帯が霧に包まれ、物憂い雰囲気を帯びた。その道中の丘の上に一軒の石造りの小屋があった。周りには何もなく、小屋だけがぽつんと建っていた。人が住んでいたのかどうかも分からない。それはまるでハイジにでも出てきそうな風景で、私だけの宝物だった。それは、子どもだからこそ見えた風景だったのかもしれない。今でも思い出すと特別な気持ちになる。


その後、小5で私は帰国したが、帰国後の方がより深刻な混乱に投げ込まれたし、適応することに苦労した。あのままアメリカで育っていれば私の人生はもっと違ったものになっていただろうな、とことあるごとに思う。でもそれはまた別のはなし。

2019年10月4日金曜日

家と魔法



いま引っ越しの真っただ中だ。

ここ数年、「引越し」という観念が頭の片隅でちらついていた。最初は「いつか引越そう」と遠くに思い浮かべているだけだったのだけれど、しだいに思いが膨れ上がって、今年7月には「年中に引越す!」と決意するまでになっていた。結婚もそうなのだけれど、こういう大がかりなプロジェクトは、よほどエネルギーを掻きたてないとなかなか重い腰を持ち上げられない。私もはじめは、今すぐでなくていいやと先延ばしにしていた。でも、時間が経つにつれて、自分のおかれた不安定な状況が我慢できなくなって、「私も私の人生を持っていいはずだ」と思うようになった。その不満を起爆剤として、引越しのために行動を起こすところまで自分を追い込んだ。

最初見た部屋は西武新宿線の新井薬師前駅にあった。「桜と公園と手づくりの部屋」というコピーとサイト上の写真がなんとも魅惑的だったのに惹かれて問合せをした。それは、ちょうど夏休みを取った金曜日で、契約済みという返信があったと思ったらほどなく契約者が保証の審査に引っ掛かったので契約がなくなったとの連絡が入ったので、その日の午後に早速見に行った。まだ心のなかに抵抗があり、内心面倒くさいと思いながらも、その面倒くささを追い払うように、連絡を受けた直後に電車に飛び乗った。目的の駅でおりて商店街を歩く心のうちには、なぜ自分はこの知らない町を歩いているのだろう、という不思議と不安が渦巻いていた。よそ者であることに意識過剰になりながら、ドキドキする気持ちを気取られないように商店街を抜けて、坂道を下り、大通りの並木の下をくぐった。そのマンションは、大きな公園のすぐ隣にたっていて、窓からの眺めもよく、レトロで味のある部屋だった。ドアを入るなり三角形のダイニングの変則的な形とDIYの白いペンキが目に飛び込んできた。ダイニングから直接つながる3つの寝室も、床や壁はDIYが施されていて、キャンプ地のような雰囲気があった。案内してくれた不動産屋のお姉さんも不動産屋さんというよりはキャンプのリーダーという風情の人で、家を見ているという感じがしなかった。ゆっくりと部屋を見た帰り、もと来た道をたどりながら、ひとつの任務をまっとうしたようなほっとした気持ちになった。その日を境として私は、ぎくしゃくしながらも、「家を探す」という現実を自分のこととして受け入れていった。


自分の住みたい家をととのえる。やっと夢を実現できる嬉しさと、生活が固定される気の重さとが混ざり合い、複雑な気持ちだ。これまでずっと生活の形が決められてしまうことに抵抗してきたから。(買わないにしても)家に思い入れを持つことはそんな私のポリシーに反する。でも、私は自らの選択として生活の形を決めることにした。抵抗をやめたというより、生活の形を決めるというチャレンジを受け入れることにした、というのが真情に近い。

マイホーム主義は嫌悪するが、自分の部屋がほしいという夢は子どものころからあった。父の仕事で小学校1年から5年まで住んだ米国の西海岸の家は、裏庭に面したリビングルームと3つの寝室以外に、通りに面した大きな窓の広い部屋があり、弟の誕生後はその部屋を自分専用に使っていた。部屋が大きかったので、区画にわけて使えて楽しかった。ダイニングルームから椅子を持ち込んで、部屋のなかにテントを作ったりもした。裏庭に大きな木があったので、そこにツリーハウスをつくろうとしたこともあった。結局うまくいかず、枝と枝のあいだに板をかけて終わってしまったが。あれはなんという木だったのだろう。乾いた小さな赤い実をつける木だった。

帰国後は西海岸の家の三分の一ほどしかない狭いマンションで、8畳程度の部屋を弟と共有しなければならなかったけれど、それでも間をエレクトーンと箪笥で仕切り、自分だけの部屋を作ることに固執した。布団を敷いたらいっぱいになるほどの狭い部屋だったけれど、それは自分だけの部屋だった。自分で大工センターから骨組みを買ってきて、棚を作ったりした。そのマンションがよかったのは、上階にいくほど部屋数が少なくなっていく構造で、飛び出した部屋の屋根に上の階の廊下からよじ登れることだった。誰も見ていない隙を見計らっては、屋根に登って自分の秘密基地にして遊んでいた。屋根の上には出っ張った構造物があったので、その上に座って本を読んだり、遠くを見渡したりした。


子どものころ、自分の部屋というのは物語と結びついていた。それは空想の入り口で、いつでも私はそこにないものを見ていた。空想を助けてくれるのは人形たちだった。よく考えると、たとえ友だちがいなくても、弟が遊び相手としては小さすぎても、人形という遊び相手がいた。いつでもその人形たちに話しかけることができた。今でも覚えているのは、まりちゃんとアンソニーという、母が作ってくれた1メートル以上ある男女の人形、30センチ程度の和服の女の子の人形(それも着物を含めて母がつくった)、キンバリーというプラスチック製の黒人の女の子の人形。その人形たちは、どこへ行ってしまったのだろう。いつから彼女たちと遊ばなくなってしまったのだろう。大切な友だちだった彼女たちとの別離の瞬間は、いまや思い出そうとしても思い出せない。

不思議なもので、大学卒業後は自分の部屋に対してほとんど思い入れを持つことがなかった。結婚前は、ルームシェアをしていたから間借りをしているという気持ちが抜けなかったし、結婚後もどう生活をしていくのかで頭がいっぱいで、落ち着いて家を整えるという気になれなかった。そのようにして形にはまってしまうことが怖くもあった。

今、引越しについて考えられるようになったのは、自分の仕事の方向性が少し見えてきたからというのもあるけれど、それと同時に、たとえ家を整えても、形にはまらないでいられると思えるからかもしれない。子どもの時と同じように、そこに空想の世界への入り口を見つけられたからかもしれない。これから何年も仕事をしながら生きていかなければならないけれど、いやだなぁと思いながらも仕事を続けるためには、自分を守ってくれる自分だけの空間が必要だ。以前はそれを親が作ってくれた。父がお金を払い、母が家の形をつくり、そこに魔法のシールドをかけて守ってくれた。でも、今は一人でそれをしなければいけない。自分を守る魔法のシールドを自分でかけなければいけない。腕の弱い魔法使いだけれど、持てる力を精一杯増やして自分の家を守っていかなければならないのだ。


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次回は10月の第3土曜日(10月19日)あたりに更新する予定です!

身を切るエッセイ漫画 永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』

作品の帯にはこう書かれている。 「高校卒業から10年間、息苦しさを感じて生きてきた日々。 そんな自分を解き放つために選んだ手段が、 「レズビアン風俗」で抱きしめられることだった―― 自身を極限まで見つめ突破口を開いた、赤裸々すぎる実録マンガ。」 大学があわなくて中退して以来、アル...