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2021年8月16日月曜日

ノートテーキングによって情報を蓄積する

 必要に迫られて仕事術の本を数冊借りた。「仕事のできるビジネスマンはここが違う」的なうたい文句が散りばめられたビジネス書や、社会人の読書術やらレポートの書き方やらいかにもサラリーマン向けの指南書ばかりで笑ってしまう。企業を辞めたときにこういう世界とは縁を切ったつもりだったのに、再びこんなことに頭を悩まそうとは。  だが仕方がない。行き詰った時はやり方を変える、というのが人生経験の乏しい私の金科玉条だ。新しい職位について早一年半、有難いことに少しずつ仕事が増えてきたが、その量を管理しきれないばかりか、今までの知識ではどう対処していいか分からない課題も出てきた。同時に自力で課題を解決できるようになりたいという自意識も芽生えてきた。何かを変えなくてはいけない。  問題は、新しい課題を渡されると頭が真っ白になって思考が停止することだ。資料を読んでもそこから何を読み取ればいいのか分からず、時間ばかりが無為に過ぎる。期限が迫って仕方なく形を整えた何かを提出するのだけれど、自分でも何をやっているのかよく分からない。「AとBをやって」とか「Cについて調べて」と具体的に指示を出してもらえれば問題なく作業を進められるけれど、道筋を示してもらわないと何もできない。大海でもがく金づちのような惨状。息を吸おうと水面に顔を出す端から波が覆いかぶさってくる。  まずはアタマ真っ白状態から抜け出さなくては。前後左右どちらにも進めない硬直状態を打開しなくては。右へなのか左へなのか分からないが、動き出せればどちらでもいい。日々学んだことを記録するためのノートが今一つ有効に使えていない状況を改善しようと図書館で手に取ったノートテーキング術の本が次の一歩への取っ掛かりとなった。初めの一歩。真っ白な紙の上に打たれた点――座標軸の始点。

 「仕事ができる人」がどうとか「外資系コンサルタント」はこうとかと各ページに登場する邪魔な修辞は本を売るための装飾と割り切って無視する。全ての主張に肯首できなくてもいい。使えれば。そして使える部分はあった。役に立つ部分、仕事を助けてくれる部分が。  それを始点とする。つまり、ポイント0(ゼロ)。  で、いったい何が分かったのか。  発見1:A4ノートを横長に3分割して使う使い方。その意味は空間に枠を与え、思考を見開き1枚の空間に視覚化するということ。3分割するのは思考を展開するためだ。まずべたな事実があるとする。勉強でいえば、授業で板書されるレベルの事柄だ。それに対する解釈、疑問、そこから導かれる事項がある。それらをすべて俯瞰した上で、最終的な結論がある。その場合、左側に事実、中央に思考の過程、右側に結論を書けばいい。要は、思考は必ず重層化するということだ。しかし、普通に前からノートを埋めていると、重層化した思考を視覚的に書き留めることができない。そのためには予め枠によって確保された空間が必要なのだ。  発見2:書いた内容を捨てていい。つまり、最初から最終形だと思って書かなくていい。最後の結論に達するまで何回も書いて何回も捨てるプロセスを繰り返す。それはそのまま思考のプロセスに対応する。通常、思考の上に思考を重ねるようにして何回もその流れを繰り返すことによって、いい考えに達する。最後の考えの中にはそれまでの思考の積み重ねが含まれているけれど、目に見えて残るのは最後の結論だけだ。だからと言ってそこに至るまでの何重もの思考がなくてよかったわけではない。思考が何重にも積み重ねられたものであるように、ノートも何重にも書かれてよい。いや、むしろ、書いて捨ててを繰り返しながら何重にも書かれるべきなのだ。ただし、文字通り物理的に捨てるわけではない。残すことに意味があるからだ。  つまりノートとは残すためのものなのだ。蓄積こそがノートの目的だ。  私にとっての仕事の困難は、大量の情報を管理できないことにあった。情報というのは仕事の手順のような事務的なレベルから、文献を読みこなすための専門的なレベルまである。事務的なレベルにおいても学んだことを覚えておけないし、一つのことを注意すると他のことを忘れてしまう。次から次へと自分に投げつけられる課題が手に負えず、日々の出来事がカオスにしか感じられない。忘れないようにノートに書いておいても、どこに書いたかが分からなくなる。

 仕事は流れ続けるものだ。日々新たに処理すべき事柄に追われ、それが繰り返す。流れを止めることはできない。しかし、ある時点で学んだことを後日活かし、日々の業務の問題点を改善できなければ、成長はない。そのためには日々学んだことや気づいたことを記録する必要がある。しかも、後日取り出せる形で。つまり時間を止めることが求められる。それがノートだ。ノートは時間を止めて情報を蓄積するための道具(ツール)なのだ。  先ほど、ノートを3分割する方法を紹介したが、私にとってその方法が有効なのは、事実を記録することと、その事実に対する気づきや反省とを同じ空間に留めることができるからだ。それによって情報を蓄積することが可能になった。ちなみにこの方法は『頭がいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?』(高橋政史)で紹介されている。この本に紹介されているメソッドが究極のノートテーキング術だとは思わないけれど取っ掛かりにはなるので興味がある人は参考にしてほしい。  『頭がいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?』(高橋政史)を読んで実際に自分の仕事に適用してみたことを紹介する。  適用その1は、業務ノートだ。  見開き1枚の上下に見出しとメモスペースを取り、中央部を4つのセクションに区切って、時間割り、やることリスト、実際の業務の内容・気づきを書くスペースを取る。するとその日の諸々の大小の業務が全て一目で見てとれ、情報のIN/OUTも一望できるノートができあがる。一日の出来事が視覚的に一気に目に入り、頭にも収まる。  適用その2は、仕事の課題の洗い出し。アタマ真っ白状態を引き起こしたのはなにか。必要なのは「問題を切り分ける」こと。大きすぎる問題を対処可能なレベルまで小さくするという研修屋さんの大好きなメソッドだ。  私の仕事特有の問題なのでどこまで汎用性があるか分からないが、私の仕事(弁理士業)を分解すると、物を読む、整理する、書く、という基本行為の集積なので、その意味では他の多くのホワイトカラー職業の最大公約数的な仕事とも言える。  現在の私の最大の課題とは何かと言えば、新規出願の明細書を書くことだ。明細書とは特許を受けようとする発明を説明する10~100枚程度の説明文書だ。それは他に例えるなら、営業マンにとっての提案書や研究者にとっての論文または一般的な仕事の報告書のようなものだと言える。つまり、何かを伝えることを目的とする型の決まった文章だ。  明細書が書けないという私の課題に対して、『頭がいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?』(高橋政史)の提示する方法に従ってA4を3分割してノートの左欄に課題(事実)を書き(事実と意見を色分けできないのが多くの人の問題なのだそうだ)、なぜそのような問題が起きるのか自問を繰り返しながらその答えを中央欄に書き(「なぜ?」を5回繰り返すのが外資系コンサルタントの方法らしい)、最後にどうすればいいか、アクションを右欄に書くということをやっていくと、意外にも頭が整理され、作業を終えたころには渾沌の泥沼から抜け出ていた。しかも、アクションプランを携えて。  具体的なアクションプランは大して面白いものではないが、一応明かしておくと、 1)明細書のあるべき形式を確認する(書き出す) 2)発明の内容を、課題、解決手段(発明の構成要素)、および効果という項目に分けて理解する(書き出す) 3)2)の発明の内容を1)の形式に当てはめる。 というものだ。  実際の明細書は、さらにこれを膨らませたものになるが、この骨子を踏襲して作業を進めれば目的を外さない明細書が書けるだろう。  ここでポイントは、思考過程を記録して、うまくいかなければ何がうまくいかないのか、次どうすればいいのかを同じ場所に書き留めて、徐々に改善できるようにすることにある。  ここ数年の経験を通じてつくづく、自らの成長を感じられないことは希望をそぐものだと感じる。何度も同じ失敗を繰り返すこと、努力しても結果が見えないこと、このような無意味な繰り返しは賽の河原に石を積むようなもので、人のやる気をむしばむ。成長を実感できるとわずかながら生きること全体に希望を感じることができるようになる。単純だが、紛れもない実感だ。

2020年12月20日日曜日

独学とは自分を知ること

3か月前に読書猿ブログに出会ったことは一つの転機だった。それまでも勉強はしていたけれど、なかなかフォーカスが定まらず、新しいことに手を出しては中断することの繰り返しだった。成長を実感できず停滞感があった。勉強の仕方が分かっていなかったのだ。読書猿ブログは、そんな私に、どうしたら勉強を継続できるのか、そのための具体的な方法や何をどう勉強したらいいかなどそれまで誰も教えてくれなかったことを教えてくれた。

 まず、「今度こそ、続けよう→3日坊主にさよならする技術」という記事を読んで、その通りに実行してみた。行動目標として、勉強セットを作り、朝仕事前にその勉強セットを開いて勉強することを決めた。ノートを見ると96日に開始している。当時はまだ先の目標がはっきりしていなかったが、仕事の知識をつける必要があったので仕事で実際に扱った案件を教材に使った。その後、仕事が忙しくなったりモチベーションが落ちたりしたにも関わらず、今に至るまでコンスタントに勉強を続けてこられたのは、「3日坊主にさよならする技術」の有効性を証明している。

 一方で、本当に決めた通りの勉強内容でよかったのか疑問もあった。勉強しなくてはいけないことが多いのに、やるべきことに全然手が届いていないように感じたのだ。そんな中、仕事で失敗が重なり、自分の不備を見せられることが多くなった。そのたびに落ち込み、やる気も停滞した。何かを変える必要があることは明らかだった。

2020年3月19日木曜日

「シリコーン」を通じて「化学」について考える



最近、「シリコーン」について勉強している。きっかけは、仕事でシリコーンに関わる案件が何件かあって、スーパーバイザーに「シリコーンの合成方法、知っていますか?知らなかったら自分で勉強しておいてね」と言われたことだった。

ちなみに「シリコーン」とは、ケイ素と酸素のシロキサン結合(Si-O)の主鎖に有機基が結びついたポリマーのことだ。ポリマーというと、炭素が何個も鎖のように連なっている長い化合物を指すことが多いのだけれど、炭素の代わりに-Si-O-が連なった鎖というわけだ。炭素ベースのポリマーと言えばプラスチックで、プラスチックは今や身のまわりのあらゆるところで使われているのは周知のとおりだが、シリコーンは、炭素ベースのポリマーほどではないにせよ、シャンプーやリンス、化粧品などの日用品にも使われているし(山谷正明[監修]、信越化学工業[編著]、『シリコンとシリコーンの化学』)、コンタクトレンズや乳房インプラントなどの特殊な用途にも使われており、私たちの生活に意外と浸透している。

2020年1月11日土曜日

中身の空っぽさは、克服できるのか



ものや人について「中身がない」というとき、そこには軽い侮蔑の念が含まれている。その言葉は、対象が軽薄で信頼に値しないことを含意する。

確かに中身がないものは人を興ざめさせる。しかし、気がつけば私自身が誰よりも空っぽなのだった。その自覚は、自己嫌悪の波となってわたしを襲う。

自分の空虚さに対する自覚は早くは学生の頃からあった。大学2年の冬に洗礼を受けたのも、一つには、その自己嫌悪に突き動かされてのことだった。変わりたかったのだ。しかし、信仰生活はさらなる中身の空白化を招いた。こんなことを言うと多くの信仰者は憤慨するだろう。信仰のあり方は多様なのだから、皆が皆空っぽなわけではないと思う。しかし、信仰が中身の空白化を招くと言うにはそれなりの理由がある。宗教はよくできたものであればあるほど、自己完結する論理構造を持っている。批判的に教義を突きつめる信仰者もいるだろうが、一般的にはそうしないだろう。その論理構造を疑わないことが信仰の平安をもたらすからだ。また、信仰のおおもとを疑うことは信仰の正当性を覆し、信者コミュニティのなかでの信仰者の居場所を危ういものにしかねない。

私にとって、信仰生活が不可避的に中身の空白化につながったのは、考えるよりも行動することを重んじ、知識を軽んじる(時には疎む)信者集団の傾向と、信仰の中にこそ答えがあると信じ、信仰を実践することに意義を感じ、時間のかかる勉強に真剣になれなかった私自身の軽薄さとが、不幸にも合致したからだった。このような傾向は宗教にかぎらず、他の若い人の活動のなかにも見られることは付言するまでもないだろう。

私が自分の中身のなさを嫌でも痛感させられたのは、大学を卒業して社会人になってからのことだった。新社会人としての日々は、信仰と善意だけでは責任をもって仕事を前進させることはできないという事実を身をもって経験する日々だった。

ここでもまた、中身のなさに対する自己嫌悪が変化の誘因となった。私は、何かの専門知識を身につけて専門職につこうと思って仕事を辞めた。

前置きがだいぶ長くなった。「何かの専門知識を身につけて専門職につこうと思って仕事を辞め」てからもう15年が経つ。その間、数年かけて国家試験を受験するとともに、大学に入りなおして化学を勉強し、ついに化学専門とする弁理士となった。

そこで最初の問いに戻る。すなわち、中身の空っぽさは、克服できるのか。

この問いは「中身」とは何かという問いを含むとともに、より具体的な次元では、「専門家」とは何かという問いにも関わる。

「中身」を「知識」に限定してしまっていいのかという疑問は残るけれど、「知識」がその主要な部分を占めることは疑いないだろう。また、知識を伴わない中身もなさそうだ。ただし、その知識は何でもいいわけではない。雑学に長けた人を私たちは「中身がある」とは言わない。知識の理解が必要だし、深さが求められる。しかし、「理解」という言葉も「深さ」という言葉も抽象的だ。そこで、仕事の場という具体的な例に限定して「中身」とは何かを考えたい。すると、そこには一人の専門家の像が浮かぶ。その専門家は何を聞いても的確に答えてくれる。アクションを起こす場合にあらゆるケースを想定して、最善の道を示してくれる。また、何を求めているかを顧客自身が分からない場合であっても、何を求めているのかを見抜いて提示することができる。彼/彼女にまかせておけば必要なアクションを取ってくれるだろうと信頼できる。

この専門家の像を考えることで、専門家の中にある知識がどういうものかを推測することができる。どのような問いにも答えられるほどの知識、あらゆるケースを事前に想定できるための知識。そのような知識とは一体どういうものだろうか。

ある哲学者の言っていた「世界史のマップ」という言葉を思い出す。世界を認識するための「マップ」だ。彼は、古典はその中に多くの議論を宿しているので、古典を読むことがマップを作るための訓練になると言い、「世界観」という言い方もしていた。彼のこの言葉に納得するのは、同業者を見ていて、仕事ができる人は、「マップ」を持っているように見えるからだ。法律家にとっての「マップ」は法律(審査基準を含む)と判例だが、彼らはどこからスタートしても、法律に結びつけることができる。あるいは、大学で取った応用物理学の授業の先生を思い浮かべる。彼は、どのような角度からの質問に対してでも原理から説き起こして説明してくれた。彼はそれを「ストーリー」と呼んでいたが、それは物理に関する「マップ」と言い換えることもできる。どこから入っても、原理から説明する道筋を見つけることができたのだ。彼のことをよく覚えているのは、大学で教わった先生方のなかで私の疑問に納得のいく答えをしてくれたのは唯一彼だけだったからだ。彼は自分のことを物理のプロとも呼んでいた。

このように見てくると、私にとっての「中身」とは職業上の専門の「マップ」を持つことだと言えそうだ。この「マップ」を形成する知識は非常に特化した具体的なものだ。それは法律の条文であり、審査基準であり、判例であり、あれこれの公的文書だ。と同時に、それは高分子の知識であり、無機結晶の知識であり、抗がん剤の知識だ。(あくまで私の場合は。職業ごとに必要とされる知識の範囲は違うだろう。)それは、「中身」として当初想像していた内容よりもだいぶ狭く感じられるが、あれこれ広く知っていても、幹となるものがなければ、それらの知識はなんの意味もない雑学に過ぎないのだから、狭さは必要条件なのだろう。知識を深めて専門を形成するためには狭い領域を掘り下げるしかないようだ

したがって、「中身の空っぽさは、克服できるのか」という問いに対しては、自分を狭くすることによって可能だと考えるしない。その方法についても考えているが、この文章が予想外に長くなってしまったので、またの機会に書こうと思う。




2019年12月15日日曜日

勉強をすることは普通ではないこと

職場と家では流れる時間が違う。


夕方、電車が川を超えて都心を離れると、仕事は遠景に退く。商店街を通って自分のに急ぐ道のりは、仕事を脱ぎ捨て素の自分に戻る変身の時間だ。商店街を抜けると、広いキャンパスと団地からなる開けた空間にでる。そこが私の家への玄関だ。我が家に訪れた友人が指摘してくれたように、商店街を抜けて家に向かう道は、神殿に向かう表参道であり、家は私にとっての神殿だ。
反対に、朝、職場の自席に座ると、意識が仕事のモードに切り替わる。例え家では疲れて何もする気が起きないときでも、職場につくと体が動き始める。そこには自分を動かす適度な緊張感がある。
家で流れる時間は生活の時間だ。生活を成り立たせるためにこまごまとした用事がある。独身で一人で暮らしている時は、自分さえよければいいと思って放っておくことでも、結婚して家族を持つと放っておけなくなる。(「おけなくなる」のか「おかなくなる」のか議論の余地があるにせよ。)生活の形を維持するための努力に時間とエネルギーを費やすことになる。反対に、独身で一人暮らしをしているときは生活がないと言っていいかもしれない。

子どもがいればなおさら、家にいる時間は子どもを中心に回るようになる。子どもは常に注意を必要とするからだ。先日、第二子を出産した元同僚宅に遊びに行ったが、ゆっくり席に座って食事をできないほど子どもが生活の中心を占めていることがよく分かった。彼女の夫は私の上司でもあるのだが、子どもが生まれてからというもの、週末は子どもの世話で忙しくて、休日出勤をするにしても夜子どもが寝たあとにしか行けなくなったと言っていた。
そのような状態で、家に帰って自分のために勉強するなんてとても無理だろうし、普通はそんなこと考えもしないだろう。それでも勉強したいと思うのは普通ではないことなのだ。
子どもができて自分の時間がなくなることは大変なことではあるけれど、そこには充実感がある。何より満たさなければならない空白の時間を埋めてもらえる。自分の存在意義が外から明確な形で与えられる。
実際、子どもを育てることというのは何にも勝る大きな仕事であるとともに、それまでの経歴に関わらず誰でもできるという点で稀有な事柄だ。(ここで、「誰でもできる」というのは、誰にでもできるほど簡単だと軽んじているのではない。それまでの経歴とは無関係にどのような人にもチャンスが与えられ、同じだけ大きな仕事を成し遂げることができる、ということだ。)子どもの出産という出来事は突然やってきて、その時点から人生を完全に変える力を持つ。
先に「自分の時間」と書いたけれど、自分の時間がありあまっているという自由な状態は一見楽しそうだけれど、実は扱い難いものだ。多くの場合、一人ぼっちの空白の時間がもし与えられたら、人はそこから逃げ出そうとする。一人ぼっちの空白の時間というのは、恐ろしいものなのだ。大学に通っていた時もその後も、勉強したいこと、しなくてはいけないことはたくさんあるのに、週末の自由な時間を目の前にすると、自分が世間から隔絶されているように感じて、不安が膨れ上がり、気がめいってやるべき勉強に集中することさえできなくなった。時間はあっても、自分で満たすしかないその空白が怖かった。いざ勉強を始めても、理解できない問題にぶつかると前進できないまま時間だけが過ぎ、無力感に襲われた。時間を無駄にしているのではないかという自己疑念と焦りが前面化した。時間を自分で満たすしかないということは、誰に求められているわけでもない、どこにも必要性はない、純粋に自分のために自分で選択するしかないということだ。そのようなときに何が必要かを決め、その決断を固守することは、そこになんの外部的な正当性もないため、難しい。

つまり、ニーズとは無関係に純粋に自分のために勉強することは、普通のことではなく、よほどの意思がない限り、不可能か、そうでなくても非常に難しい。それは世間的な時間から外れることだからだ。以前、弁理士試験の受験を後押ししてくれた師が社会人には純粋な勉強はできない、「親の元を離れる直前の年齢が純粋な勉強のできる唯一の貴重な時間」と述べているのを読んだときは納得できなかったけれど、自分が社会人として勉強してみて、彼の言葉のもつ意味を理解することができた

しかし、「純粋な勉強」ということにこだわることをやめたとき、今の環境の方が私にとって勉強しやすい。なぜなら、より具体的で明確な課題が与えられているからだ。実際「化学」という抽象的な概念のもと、「化学」とは何かを理解しようとして各教科を勉強していたころは、目標が漠然とし過ぎていて何を勉強したらいいか分からなかったし、それらの科目がどうつながるのか、どのようにもっと大きな絵に収まるのかが全く見えてこないことへのフラストレーションを抱えていた。しかし、いざ仕事について個々の案件をアサインされると、それぞれ現在研究され商業化されている具体的な技術なので、その技術を理解するために背景となる化学を勉強するという明確な目標ができはるかに勉強しやすくなったし、勉強することが楽しくなった

それでも仕事の時間外に自分のために勉強するということは自己中心にならないと難しいだろう。


前述の師は「校門と塀」という表現を好んで使う。学校は”校門と塀とに囲まれることによって<社会>――「在るものは在る、無いものは無い」としか言えない機能主義的な〈社旗〉――から隔離されているからこそ誰にでも開放されている”と。勉強をしようとするときに「塀」が必要であること、世間から隔絶される必要があるのは社会人も同じだ。私にとって大学通学はそのようなものだった。世の中の時間の流れから外れて真空のポケットの中にいた。それは時間から取り残されることでもあった。自分だけが家族や友達から異なる時間の流れの中に生きなければならなかった浦島太郎はこういう気持ちだったのだろうと思わせられるような体験だった。
しかし、それは大学に通わなくなった今も必要なことだ。例え仕事のための勉強であったとしても、仕事のペースに合わせて勉強することはできないのだから。仕事上のニーズは日々変化するから、どこかで自分を切り離して、かかとを土に食い込ませ、自分の穴を掘るしかない。それはトンネルを掘るような作業だ。
「歳を取って本を読んでいる人なんて、私は絶対に信じません」という師だけれど、最近出版された彼の本を読むと引用されている文献の多くは最近のもので、彼が継続的に本を読んでいることは明らかだ。一時はツイッターの論客として注目され、日々何十、何百というツイートしていた彼が急に静かになったとき、彼が死んでしまったかのような寂しさを感じたが、それは彼が行き場を失ったわけではなく、表に現れない時間を自らの勉強に費やしていたのだとも考えられる。
人を見て、この人はいつそんなに勉強をしたのだろうと思うことはあるけれど、ほかの人々がツイッターや社交に忙しくしている時間以外にどんな時間があるだろうか。人が勉強しているときというのは、他人に対して死んでいるときだと考えた方がいいのかもしれない。

関連記事:社会人として勉強することと生活https://petitreport.blogspot.com/2019/11/blog-post_9.html
勉強ーー社会的隔離の果てに見えたもの(人格OverDrive)

2019年11月9日土曜日

勉強と生活



仕事をしながら大学に通うなどということは、まともなことではない。きちんと勉強するつもりならなおさらだ。もし、仕事をしながら大学に通い、それなりに勉強しようと思うのであれば、普通の生活をあきらめなければならない。普通の生活どころか生活自体がないも同然だと思った方がいい。

私はこの春に夜間の大学を卒業したが、よくもそんな無茶なことをやってのけたものだと、数か月たった今は思う。最近は仕事だけで疲れ切ってしまって、終業後に学校に通うことなんて想像もできない。

振り返ってみると、当時の生活はちょっと異常だった(笑)。仕事と通学と予復習以外何もしないという勢いで生きていた。人づきあいは避けたし、家事も生きていくために必要な最低限のことを除いてほとんどしなかった。するとしても、できるかぎり省略して時間をかけないようにしていた。というか、勉強以外のことを極力考えないようにしていた。

途中から大学の近くに部屋を借りて、そこで生活を始めた。そうしないと体力的にしんどかったからだ。大学に通うことだけを目的とした小さなワンルームのアパートだった。16平米しかなく、押入れもなかったので、最小限のものしか持ち込めなかった。(ほとんどの持ち物は千葉の貸家に置きっぱなしにした。)テレビもたんすも冷蔵庫もないのに、本棚と机はそれぞれ2個ずつあるという、生活の場としてはいびつな部屋だった。

ワンルームアパートは私にとって、普通でない生活と密接につながった存在だ。「生活のない生活」の象徴だといってもいい。「生活のない生活」とはどういうものか。生活を取り戻した今なら分かる。生活には生きることプラスアルファがある。それは日常のルーチンであったり、快適さを保つためのちょっとした努力だったりする。それらの余剰の部分は生きることにリズムと安定感を与えてくれる。生活は外界から自分を守ってくれるホームグラウンドだ。だからこそそれを維持するために努力がはらわれる。反対にいうと、努力や思いを注ぎ込むことによって出来上がるのが生活だ。

また、生活というのは目的に奉仕しないものだとも言える。目的を達するためなら、わざわざ生活の場を心地よくするための余計な努力(定期的に掃除したり、おいしい料理を作ったり、花を飾ったり)は無駄なだけだ。そのような努力によって得られる喜びは、なくてもいいものだ。

そのワンルームアパートは私にとって目的のためだけに選ばれた場所だった。だから、そこで生きることが「生活のない生活」となったのも当然の結果だ。そこに住んでいたころはいつも、どうやったら時間と体力を節約できるか、あるいは、どうやったらお金を節約できるかということばかりを考えていたような気がする。勉強のために少しでも多くの時間を確保しようと必死だったが、体力に不安があったので、できるだけ睡眠をとることも必要で、無駄なことに割く時間はなかった。週一回買い物に行ったけれど、いつもぎりぎりな気持ちだった。

あの頃の追い詰められた精神状態をどう説明したらいいのか分からない。もちろんその最大の原因が仕事をしながら大学に通うという異常な状況だったことは間違いないが、あのワンルームの空間も原因のひとつだったと言っても差し支えないだろう。あの狭い空間のなかには逃げ場がなかった。すべての機能が同じ空間のなかに押し込まれたワンルームでは、手足を存分に伸ばすことも歩き回ることもできなかった。つまり、無駄なスペースがなかった。そして、無駄なスペースがないことが私を息苦しくさせ、心が休まるのを妨げた。

今朝台所で洗いものをしながら、そういう何気ない日常的な作業が自分を安心させることをしみじみと実感し、この数年そのような安心感を持てないでいたのだということに気づかされた。

振り返り 12月27日(金)仕事納め

12月最後の金曜日の今日は仕事納め。 しかし、仕事納まってない。 12月後半は、締め切りが重なって怒涛の日々だった。しかも作業量の大きい案件ばかり。 そして締め切りラッシュは年明けまで続く。