2019年12月15日日曜日

勉強をすることは普通ではないこと

職場と家では流れる時間が違う。


夕方、電車が川を超えて都心を離れると、仕事は遠景に退く。商店街を通って自分のに急ぐ道のりは、仕事を脱ぎ捨て素の自分に戻る変身の時間だ。商店街を抜けると、広いキャンパスと団地からなる開けた空間にでる。そこが私の家への玄関だ。我が家に訪れた友人が指摘してくれたように、商店街を抜けて家に向かう道は、神殿に向かう表参道であり、家は私にとっての神殿だ。
反対に、朝、職場の自席に座ると、意識が仕事のモードに切り替わる。例え家では疲れて何もする気が起きないときでも、職場につくと体が動き始める。そこには自分を動かす適度な緊張感がある。
家で流れる時間は生活の時間だ。生活を成り立たせるためにこまごまとした用事がある。独身で一人で暮らしている時は、自分さえよければいいと思って放っておくことでも、結婚して家族を持つと放っておけなくなる。(「おけなくなる」のか「おかなくなる」のか議論の余地があるにせよ。)生活の形を維持するための努力に時間とエネルギーを費やすことになる。反対に、独身で一人暮らしをしているときは生活がないと言っていいかもしれない。

子どもがいればなおさら、家にいる時間は子どもを中心に回るようになる。子どもは常に注意を必要とするからだ。先日、第二子を出産した元同僚宅に遊びに行ったが、ゆっくり席に座って食事をできないほど子どもが生活の中心を占めていることがよく分かった。彼女の夫は私の上司でもあるのだが、子どもが生まれてからというもの、週末は子どもの世話で忙しくて、休日出勤をするにしても夜子どもが寝たあとにしか行けなくなったと言っていた。
そのような状態で、家に帰って自分のために勉強するなんてとても無理だろうし、普通はそんなこと考えもしないだろう。それでも勉強したいと思うのは普通ではないことなのだ。
子どもができて自分の時間がなくなることは大変なことではあるけれど、そこには充実感がある。何より満たさなければならない空白の時間を埋めてもらえる。自分の存在意義が外から明確な形で与えられる。
実際、子どもを育てることというのは何にも勝る大きな仕事であるとともに、それまでの経歴に関わらず誰でもできるという点で稀有な事柄だ。(ここで、「誰でもできる」というのは、誰にでもできるほど簡単だと軽んじているのではない。それまでの経歴とは無関係にどのような人にもチャンスが与えられ、同じだけ大きな仕事を成し遂げることができる、ということだ。)子どもの出産という出来事は突然やってきて、その時点から人生を完全に変える力を持つ。
先に「自分の時間」と書いたけれど、自分の時間がありあまっているという自由な状態は一見楽しそうだけれど、実は扱い難いものだ。多くの場合、一人ぼっちの空白の時間がもし与えられたら、人はそこから逃げ出そうとする。一人ぼっちの空白の時間というのは、恐ろしいものなのだ。大学に通っていた時もその後も、勉強したいこと、しなくてはいけないことはたくさんあるのに、週末の自由な時間を目の前にすると、自分が世間から隔絶されているように感じて、不安が膨れ上がり、気がめいってやるべき勉強に集中することさえできなくなった。時間はあっても、自分で満たすしかないその空白が怖かった。いざ勉強を始めても、理解できない問題にぶつかると前進できないまま時間だけが過ぎ、無力感に襲われた。時間を無駄にしているのではないかという自己疑念と焦りが前面化した。時間を自分で満たすしかないということは、誰に求められているわけでもない、どこにも必要性はない、純粋に自分のために自分で選択するしかないということだ。そのようなときに何が必要かを決め、その決断を固守することは、そこになんの外部的な正当性もないため、難しい。

つまり、ニーズとは無関係に純粋に自分のために勉強することは、普通のことではなく、よほどの意思がない限り、不可能か、そうでなくても非常に難しい。それは世間的な時間から外れることだからだ。以前、弁理士試験の受験を後押ししてくれた師が社会人には純粋な勉強はできない、「親の元を離れる直前の年齢が純粋な勉強のできる唯一の貴重な時間」と述べているのを読んだときは納得できなかったけれど、自分が社会人として勉強してみて、彼の言葉のもつ意味を理解することができた

しかし、「純粋な勉強」ということにこだわることをやめたとき、今の環境の方が私にとって勉強しやすい。なぜなら、より具体的で明確な課題が与えられているからだ。実際「化学」という抽象的な概念のもと、「化学」とは何かを理解しようとして各教科を勉強していたころは、目標が漠然とし過ぎていて何を勉強したらいいか分からなかったし、それらの科目がどうつながるのか、どのようにもっと大きな絵に収まるのかが全く見えてこないことへのフラストレーションを抱えていた。しかし、いざ仕事について個々の案件をアサインされると、それぞれ現在研究され商業化されている具体的な技術なので、その技術を理解するために背景となる化学を勉強するという明確な目標ができはるかに勉強しやすくなったし、勉強することが楽しくなった

それでも仕事の時間外に自分のために勉強するということは自己中心にならないと難しいだろう。


前述の師は「校門と塀」という表現を好んで使う。学校は”校門と塀とに囲まれることによって<社会>――「在るものは在る、無いものは無い」としか言えない機能主義的な〈社旗〉――から隔離されているからこそ誰にでも開放されている”と。勉強をしようとするときに「塀」が必要であること、世間から隔絶される必要があるのは社会人も同じだ。私にとって大学通学はそのようなものだった。世の中の時間の流れから外れて真空のポケットの中にいた。それは時間から取り残されることでもあった。自分だけが家族や友達から異なる時間の流れの中に生きなければならなかった浦島太郎はこういう気持ちだったのだろうと思わせられるような体験だった。
しかし、それは大学に通わなくなった今も必要なことだ。例え仕事のための勉強であったとしても、仕事のペースに合わせて勉強することはできないのだから。仕事上のニーズは日々変化するから、どこかで自分を切り離して、かかとを土に食い込ませ、自分の穴を掘るしかない。それはトンネルを掘るような作業だ。
「歳を取って本を読んでいる人なんて、私は絶対に信じません」という師だけれど、最近出版された彼の本を読むと引用されている文献の多くは最近のもので、彼が継続的に本を読んでいることは明らかだ。一時はツイッターの論客として注目され、日々何十、何百というツイートしていた彼が急に静かになったとき、彼が死んでしまったかのような寂しさを感じたが、それは彼が行き場を失ったわけではなく、表に現れない時間を自らの勉強に費やしていたのだとも考えられる。
人を見て、この人はいつそんなに勉強をしたのだろうと思うことはあるけれど、ほかの人々がツイッターや社交に忙しくしている時間以外にどんな時間があるだろうか。人が勉強しているときというのは、他人に対して死んでいるときだと考えた方がいいのかもしれない。

関連記事:社会人として勉強することと生活https://petitreport.blogspot.com/2019/11/blog-post_9.html
勉強ーー社会的隔離の果てに見えたもの(人格OverDrive)

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