日本発の調味料、味の素®が開発されたのは明治末期のことだった。味の素®の基盤技術である「グルタミン酸塩を主要成分とする調味料製造法」について発明者の池田菊苗が特許を取得したのは1908年(明治41年)だ。このとき、明治政府が樹立され、欧米列強に追いつこうとする体制が敷かれてから41年が経過していた。41年という期間が、日本人が自力でこのような商品を開発できるようになるための期間として長いのか短いのかは分からない。ただ、たとえ「海外技術と国産技術の差は歴然であって、国産技術に対する信頼度は低かった」という状況であったとしても1)、グルタミン酸ナトリウムを製造し商品化するレベルの知識や技術がすでにあったことは確かだろう。
参考までに記すと、この時世界では量子力学への胎動がはじまっており、1904年(明治37年)には、J. J. Thompsonが原子構造についてブドウパンモデルを、1907年(明治40年)にはドイツ帰りの日本人、長岡半太郎が土星型原子モデルを発表している。1907年は、中間子理論を構築した湯川秀樹が生まれた年でもある。
このように見ると、科学においては、明治から現代までが地続きに感じられる。湯川秀樹などは私にとって少し年上の偉い人というイメージだ。そのような印象は、特許庁のデータベースに保存された池田の特許を見たときにも受ける。
この印象は池田と同時代人の夏目漱石を昔の歴史上の人物のように感じるのと対照的だ。
実は、漱石と池田は同時代人であるばかりでなく友達同士だった。私がその事実を最初に知ったのは味の素社の社史を通してだった。そこには池田について「大の読書家としても有名で、…漢書、英書、歴史、文学、経済、宗教、思想など幅広く書物として接し、さまざまな知識を有していた。イギリスに留学した際、同じ下宿にいた夏目金之助(漱石)が、池田のそうした造詣の深さに感心し、影響を受けたという」と書かれていた1)。
意外に思って、漱石のろんどん留学日記3)を確認すると、確かに池田に関する記載が見られる。曰く、
明治34年5月3日(金)「Streathamに至る。Glasgowへ受取を出す。諸井氏より返事来る。神田氏在英の事を知る。主人に手紙引換を頼む。池田氏の部屋出来上がる。」
同5月5日(日)「朝、池田氏来る。午後散歩。神田・諸井・菊池三氏来訪。」
同5月6日(月)「池田菊苗氏とRoyal Instituteに至る。
夜十二時まで池田氏と話す。」
同5月9日(木)「Tooting Commonに行く。読書。夜、池田氏と英文学の話をなす。同氏は頗る多読なり。」
同5月15日(水)「池田氏と世界観の話、禅学の話などす。氏より哲学上の話を聞く。」
同5月16日(木)「小便所に入る。宿の神さん曰く、男は何ぞというと女だものというが、女は頗るusefulな者である、こんなことをいうのは失敬だ、と。
夜、池田氏と教育上の談話をなす。また支那文学について話す。」
池田は漱石のろんどん留学日記にもっともよく登場する日本人の一人かもしれない。日記を読むかぎり、よく議論した相手であることは確かだ。この時の対話がのちの『文学論』に開花したと言われている2)。
ある場所で知りあった友達が、それとはまったく無関係な場所でえた別の友達と知り合い同士だったと知るのは嬉しい驚きだが、この二人の邂逅にも似たような感慨をおぼえる。
参考文献
1) 味の素、味の素グループの百年史、序章、pp 30-33
2) 恒松郁生、漱石個人主義へ、雄山閣、2015、p 266
3) 平岡敏夫編、漱石日記、岩波書店、2010
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