可もなく不可もなく。突然このタイトルが思い浮かんだ。
最近起きた個人的な大ニュースについて、どう捉えたらいいのだろうと考えこんでいた時のことだった。もともと考え込むようなことではなく、気持ちをおさえられないほど興奮していた。でもすぐに、私のこのあふれんばかりの気持ちは人には伝わらないのだと気づいて、行き場をなくした感情が爆発しそうになっていた。
私にとっては大きな意味のある重大なニュースなのに、ほかの人にはただの些細な出来事にすぎない。そう思うと、それは違うんだ、と訴えるような気持ちが昂ぶり、言葉があふれでた。しかし、どんなに言葉を尽くしても、私にとってのその出来事の意味は人に伝わるものではない。そのギャップをどう受けとめたらいいのか答えを求めていたときに、「可もなく不可もなく」という言葉がふっと現れた。そして、その言葉は遠近法をもって状況を眺めることを可能にしてくれた。
可もなく不可もなく。実際にそうなのだ。私にとってのそれらの出来事は。
最も大きなニュースは弁理士採用が決定したこと。2011年に弁理士を目指して勉強を始めてから8年目にしてやっとだ。弁理士試験に合格して、弁理士として働きたいという希望を雇用主に伝えてからも4年の月日が流れた。その間、化学の学位が必要と言われて(私は化学班に所属していたため)夜間で大学に通い、やっと卒業してもすぐには弁理士として認めてもらえず、先が見えないまま努力を続ける日々が続いた。
その日、総務の人に呼ばれて弁理士採用が決まったと言われたとき、信じられないような気持でボーっとしてしまった。嬉しさで午後いっぱい仕事が手につかなかったほどだ。ほかの多くの人にとっては、単に弁理士として採用されただけのことであり、通常はもっと簡単に採用に至るものだけれど、文系で化学のバックグランドがなかった私は思いのほか時間がかかってしまった。しかも、大学卒業後、弁理士として採用してよいかどうか評価するための試用期間は、自分がどう評価されているのか分からず、毎日びくびく過ごしていた。
目標が達成されたことは、ながい忍耐の賜物なのだ。
でも、別の見方をすれば、ステータスこそ変わるけれども、それによって何かが大幅に変わるわけではない。給料がそんなに上がるわけでもないし、急に仕事ができるようになるわけでもない。実際、採用決定の知らせを受けた翌日に一日がかりで提出した仕事は、私の考えた案が間違っているとダメ出しを受け、落胆した。
若いときに好きだった『サイファ』という漫画を思い出す。俳優のサイファは、自分の役が批判されるとスタッテンアイランドフェリーにのって自由の女神を眺めに行く。「始まりはいつもゼロ」と心のなかでつぶやきながら。「サイファ」とは「ゼロ」という意味なのだ。いいときも悪い時も、ゼロに戻ること。それって、「可もなく不可もなく」と同じ心の態度を指しているのではないだろうか。
私にとって、確かに、長年の目標は達成されたけれど、それは初めの一歩にすぎず、一人前になるには程遠い。何も終わってはいないのだ。目標を達成した高揚感はつかの間のことで、気を取り直して次の目標に向かってまた歩き始めるしかない。そして、結局ハードワークしかない。
最近遂行した引っ越しについても同じことが言えそうだ。新しい部屋に移って自分の思い通りの家を整えられることに興奮したけれど、その高揚感はつかの間のことで、色々な問題点が見えると失敗だったのではないかと気分が沈む。家具が失敗だったのではないかとか、町があまりオシャレではないとか、職場から遠いとか。大きな出来事なだけに感情の振幅も大きい。でもそれも距離をおいて眺めれば、「可もなく不可もなく」と言えることではないだろうか。必要なのは良い点と悪い点を冷静に眺めて受け入れること。そして、住みやすい家になるように努力すること。それしかないのだ。