2019年10月18日金曜日

うさぎの穴とマイ・ワールド


子ども時代に多くの引越しを経験した人とずっと同じ町で育った人とでは、世界の見え方がまったく違うだろうと想像する。学齢期に海外暮らしと帰国後の適応の難しさを経験するなかで、引越しをしたことがない子の世界の揺るぎなさをうらやましく思った。引越すたびに、すでにできあがっている関係の輪のなかにどうやって入っていけばいいのか途方に暮れ、新しい世界のルールを理解することに苦労しながら、他の子たちから見える世界はどのようなものなのだろう、と不思議でならなかった。

だからといって、引越しが悪いことばかりだったわけではない。私が豊かな物語の世界にひたることを覚えたのは、引越しのおかげだ。特に小学校1年のときの海外移転は、どんな冒険物語にも負けない冒険の世界に私を引き入れた。何もわからない未知の世界に踏み込むことは恐ろしいことであると同時に驚きに満ちていた。右も左も分からず、言葉も通じない世界だからこそ、感覚が鋭敏になっていたのかもしれない。それは『宝島』の小説を読んだときの気分に似ている。見慣れたものが何もない世界に放り込まれて、危険と隣り合わせで絶えずひやひやしているかと思うと、目がくらむような眩い宝に囲まれる。すべてがカオスで、そこにどのような論理が通っているのか見当もつかない。あるいは、うさぎの穴に落っこちたアリスのようでもある。まったく筋の通らない世界で混乱の渦に飲み込まれる。そのような世界に生きていると、否が応でも想像力がたくましくなる。想像力を膨らませることによって、分からないことを補うしかないのだから。言葉が通じず何が起きているか分からない世界ではトイレに行くことさえ冒険だ。通い始めた現地校で、トイレの前までたどり着いたのに、男子トイレか女子トイレか分からず、途方にくれて立ち尽くしたことを覚えている。


アメリカに引越したとき、最初に降り立ったのはサンフランシスコだった。当時の私は、サンフランシスコと聞いて、油が流れる坂道を皮革のブーツをはく大柄な人々が闊歩する町を思い描いていた。西部劇の世界に放り込まれるような気持でいたのかもしれない。サンフランシスコで泊まった宿は、薄暗く、古びていて、エレベーターはガタガタと音がした。今にも物陰からギャングが飛び出してきそうで、私は気が気ではなかった。6歳の私にとって、すれ違う非アジア系の人々は皆、私を襲おうと狙っている悪者に見えた。

サンノゼの新しい家に移り現地校に通い始めたあとも、言葉が分からず、何が起きているかさっぱり分からない状態が続いた。赤ん坊が言葉を覚えるまでも同じようなものなのかもしれない。それは世界が意味を失った状態、つまり、カオスのなかを漂う状態だった。だからこそ、あらゆる場所に想像の世界への入り口が転がっていたともいえる。

その期間を通じて私には架空の小人の友達がいた。未知の土地へ引っ越す怖さ、何が起きるか分からない怖さも彼らがなだめてくれた。彼らは白雪姫の七人の小人たちのように私を取り囲み、私に勇気を与えてくれた。よく彼らと一緒に町を探検した。町といっても、せいぜい自分の住む道(Ariel Drive)の角までだったけれど。不思議とそのあたりでは、登下校時間を過ぎると町はしーんとして人気がなくなった。子どもたちは、塀で囲まれた裏庭で遊んでいたのだと思う。

想像上の小人たちはやがて実際の人形に姿を変えた。マリちゃん、アンソニー、キンバリー、人形たちは一人ひとり名前を持った特別な存在だった。彼らが特別だったのは、忠実な友だちでいてくれたからではないかと思う。私は、お話をつくって人形たちと遊ぶことを楽しんだ。やがて現実の友達ができて一緒に遊ぶようになったあとも、どれだけ面白いお話をつくれるかは大切なポイントだった。子どもの遊びというのはすべて物語をつくることの上に成り立っていることを思えば、物語をつくる能力に特別な価値をおいていたのも当然のことと思える。私は、心のどこかで、想像の世界を共有できる人こそが真の友達だと思っていた。

 *サンノゼで住んでいた家。当時は家はベージュ色で、前庭も芝生ではなかった。

サンノゼに住んでいた頃、毎週土曜日にはスクールバスで1時間ほど離れたサンフランシスコの補習校に通っていた。多分、現地の高校の建物を借りていたのだと思う。6時ころに起こされ、弁当を持たされ、スクールバスの停車場まで車で送ってもらう。そこから友達とバスに乗り込んで補習校に向かう。補習校の記憶はおぼろげにしかないけれど、そこでありさちゃんという友だちと出会ったことを覚えている。彼女はまさに想像の世界を共有できる人だった。私たちは、始業前には、補習校の校庭の広場になった場所でバレーごっこをして遊んだ。白鳥の湖とか、くるみ割り人形とか、自分たちで勝手に振り付けを作って踊るのだ。人が通るのも構わず。そして、ありさちゃんもサンノゼ方向に住んでいたので、下校時にはバスで隣の席に座って、互いに小説を書きあった。1時間のバス旅の間にそれぞれの小説を書き上げ、降車場につく前に交換する。すべての子どもがお話を書くことを好むわけではないので、そのような友だちがいてラッキーだった。

実は、サンノゼ-サンフランシスコ間のバス旅が好きな理由はほかにもあった。バスが通ったのは、ハイウェイ101だったと思う。親から離れて子どもだけで隣町まで旅するというのはそれだけでドキドキする冒険だったが、私は窓の外の風景にいつも魅了された。サンノゼからサンフランシスコにいたるハイウェイはなだらかな丘に囲まれていて、そこに牛が放牧されていることもあった。サンフランシスコに近づくと、辺り一帯が霧に包まれ、物憂い雰囲気を帯びた。その道中の丘の上に一軒の石造りの小屋があった。周りには何もなく、小屋だけがぽつんと建っていた。人が住んでいたのかどうかも分からない。それはまるでハイジにでも出てきそうな風景で、私だけの宝物だった。それは、子どもだからこそ見えた風景だったのかもしれない。今でも思い出すと特別な気持ちになる。


その後、小5で私は帰国したが、帰国後の方がより深刻な混乱に投げ込まれたし、適応することに苦労した。あのままアメリカで育っていれば私の人生はもっと違ったものになっていただろうな、とことあるごとに思う。でもそれはまた別のはなし。

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