2019年11月22日金曜日

内と外〜アイデンティティは何によって決まるのか


めっり冷えてきた。朝、家のぬくもりを後にして夜明けの町に踏み出すと、空気の冷たさに身が引き締まる。この数日は手袋があったほうがいいと思うほどでさえあった。いまや季節の感覚は狂い果てたけれど、その分毎日の気温の変化を意識するようになった。そして知った。気温はある日突然変わるのだということを。ある日突然<涼しい>から<肌寒い>になり、手袋が必要な寒さとなる。そして、気がついたら木々は紅葉を始めていた。

もう秋だ。

私にとっての秋は、ニューイングランドの秋だ。コネチカット川を抱く谷間が紅葉で埋め尽くされる風景の、眼を見張るような美しさだ。キャンパスを歩いていても突き抜けるような青空に映る木々の鮮やかな彩りが目に染みた。自然界がその輝きを増したようだった。みな、長く厳しい冬に備えて最後の陽光を楽しみ、力を蓄えた。来るべき冬の存在によって、秋の輝きはより強烈に放射された。

ニューイングランドの秋から冬へかけた季節を考えると、ピルグリムの父祖たち(pilgrim forefathers)を思わずにはいられない。自由を求めて新大陸にたどりついた彼らが、長い冬を生き延び、開墾して種をまき、収穫を得た秋を。彼らにとっての初めての感謝祭を。「新大陸」という呼び方自体の問題を認識しつつも、自由を求めて未知の世界に飛び出した彼らに自分を重ねずにはいられない。それはまだ幼い時に現地の小学校で学んだ米国の建国史が、私をその国の一部であるかのように思わせたからかもしれない。



そうなのだ。私は日本の歴史をならうよりさきに合衆国の歴史に親しんでいたのだ。星条旗への宣誓も暗唱した。毎朝、教室の前方にかかげられた旗にむかって唱えたその言葉は、私の体内を流れるリズムとなった。今でもなんなく暗唱できる。

不思議なことに、小学生の頃の私は、アメリカの歴史を異国の話としてではなく、そこに属するものとして聞いた。自分が日本人であることにはなんの疑問もなかったけれど、アメリカの歴史の部外者だと思うこともなかった。まるで自分が最初からその国に属していたかのような気持ちでいるじぶんになんの違和感も感じなかった。そして、アメリカの建国史は幼い私にとって非常に魅力的に響いた。ピルグリムの話も西部開拓の話も夢を与えてくれた。色々な本を読んで開拓時代の世界にひたった。なかでも「大草原の小さな家」は大好きで、日本語でも英語でも読んだ。また、ハロウィンにはピルグリムの女性に仮装したりもした。そもそも歴史は「知識」ではなかった。それは私を取り囲み、私の体内に浸透し、私の世界を形づくった。自分 を作りあげる物語として私はそれを受容した。その頃の私は日本もアメリカも等しく自分の一部として認識し、そこになんの境界も見いださなかった。周囲の人々も私がなに人かなど気にしていないようだった。

しかし、大学生として渡米したときにはまったく違う状況におかれた。当時アメリカ中のキャンパスがアイデンティティポリティクスの渦のなかにあり、スミス大学もその例外ではなかった。そのため留学生だった私も自分のアイデンティティを意識せざるを得なかった。学内には各エスニックグループを代表する組織があって、それぞれの主張を行なっていた。アフリカ系の子はアフリカ系の子同士で、ラティノ系の子はラティノ系同士でかたまり、そのグループから抜けることは裏切りとみなされた。境界を越えることは非常に難しく感じられた。アメリカ人と友達になりたいからアメリカに来たのに、アジア系の人としか付き合えないなんて変ではないか、と疑問に思ったのを覚えている。

最近、米国大統領選の民主党候補に立候補したカマラ・ハリス(Kamala Harris)の選挙戦のようすを伝え聞いて、境界を越えることの難しさをあらためて認識させられた。彼女はジャマイカ系、インド系アメリカ人でオバマ元大統領に続く候補と見られていた。その意味は、若者や有色人種など、層を超えた人々の心を勝ちとることができる候補だとみられていた。オバマ元大統領は、アフリカ系アメリカ人だけでなく白人や他の層の人々の支持を勝ち取ることができたからこそ選挙に勝てたし、初のアフリカ系の大統領になることができた。自分がもともと属するグループにしか受け入れられないままでは、勝てない。しかし、それは簡単なことではない。それが出来る人は稀だ。オバマ元大統領は奇跡のような人だったのだ。

境界を越えることは、どのようにしたら可能なのだろうか。

私はまだその答えを得ていない。ただ、それが大きなエネルギーを必要とすることであることはわかっている。

私はそのような力を得ることができるのだろうか。



2019年11月9日土曜日

勉強と生活



仕事をしながら大学に通うなどということは、まともなことではない。きちんと勉強するつもりならなおさらだ。もし、仕事をしながら大学に通い、それなりに勉強しようと思うのであれば、普通の生活をあきらめなければならない。普通の生活どころか生活自体がないも同然だと思った方がいい。

私はこの春に夜間の大学を卒業したが、よくもそんな無茶なことをやってのけたものだと、数か月たった今は思う。最近は仕事だけで疲れ切ってしまって、終業後に学校に通うことなんて想像もできない。

振り返ってみると、当時の生活はちょっと異常だった(笑)。仕事と通学と予復習以外何もしないという勢いで生きていた。人づきあいは避けたし、家事も生きていくために必要な最低限のことを除いてほとんどしなかった。するとしても、できるかぎり省略して時間をかけないようにしていた。というか、勉強以外のことを極力考えないようにしていた。

途中から大学の近くに部屋を借りて、そこで生活を始めた。そうしないと体力的にしんどかったからだ。大学に通うことだけを目的とした小さなワンルームのアパートだった。16平米しかなく、押入れもなかったので、最小限のものしか持ち込めなかった。(ほとんどの持ち物は千葉の貸家に置きっぱなしにした。)テレビもたんすも冷蔵庫もないのに、本棚と机はそれぞれ2個ずつあるという、生活の場としてはいびつな部屋だった。

ワンルームアパートは私にとって、普通でない生活と密接につながった存在だ。「生活のない生活」の象徴だといってもいい。「生活のない生活」とはどういうものか。生活を取り戻した今なら分かる。生活には生きることプラスアルファがある。それは日常のルーチンであったり、快適さを保つためのちょっとした努力だったりする。それらの余剰の部分は生きることにリズムと安定感を与えてくれる。生活は外界から自分を守ってくれるホームグラウンドだ。だからこそそれを維持するために努力がはらわれる。反対にいうと、努力や思いを注ぎ込むことによって出来上がるのが生活だ。

また、生活というのは目的に奉仕しないものだとも言える。目的を達するためなら、わざわざ生活の場を心地よくするための余計な努力(定期的に掃除したり、おいしい料理を作ったり、花を飾ったり)は無駄なだけだ。そのような努力によって得られる喜びは、なくてもいいものだ。

そのワンルームアパートは私にとって目的のためだけに選ばれた場所だった。だから、そこで生きることが「生活のない生活」となったのも当然の結果だ。そこに住んでいたころはいつも、どうやったら時間と体力を節約できるか、あるいは、どうやったらお金を節約できるかということばかりを考えていたような気がする。勉強のために少しでも多くの時間を確保しようと必死だったが、体力に不安があったので、できるだけ睡眠をとることも必要で、無駄なことに割く時間はなかった。週一回買い物に行ったけれど、いつもぎりぎりな気持ちだった。

あの頃の追い詰められた精神状態をどう説明したらいいのか分からない。もちろんその最大の原因が仕事をしながら大学に通うという異常な状況だったことは間違いないが、あのワンルームの空間も原因のひとつだったと言っても差し支えないだろう。あの狭い空間のなかには逃げ場がなかった。すべての機能が同じ空間のなかに押し込まれたワンルームでは、手足を存分に伸ばすことも歩き回ることもできなかった。つまり、無駄なスペースがなかった。そして、無駄なスペースがないことが私を息苦しくさせ、心が休まるのを妨げた。

今朝台所で洗いものをしながら、そういう何気ない日常的な作業が自分を安心させることをしみじみと実感し、この数年そのような安心感を持てないでいたのだということに気づかされた。

2019年11月2日土曜日

書くことは記憶を呼びおこすこと


書くことは記憶を呼びおこすことだ。リルケは若き詩人に幼年時代について書くことを勧めていたけれど、それは記憶の作用と無関係ではないだろう。詩人は深い記憶の泉から言葉とイメージを汲み出す。意識の表層に浮かぶ灰汁を漉しとることが大事なのだ。


しかし、記憶が枯れることがある。記憶をたどろうとしても何も出てこない。意識が記憶への回路をブロックしているかのように、色々な感覚が断ち切られる。別にトラウマがあるわけではない。ただ、神経が今この瞬間の情報を処理するのに忙しく、皮膚下5センチほどのところを駆け巡って、意識をのっとっているのだ。まるで記憶喪失にかかったかのような状態だ。それは今の私の状態でもある。

PCの前に座って画面をにらんでも頭のなかは真っ白。なんの記憶も浮かんでこない。最近の出来事しか思い出すことができない。今この瞬間に起きていること以外のことについて考えることも感じることも脳が拒否しているかのようだ。(実際に拒否しているのが脳なのか、それ以外の何かなのかは分からない。ただ、記憶を呼びおこそうとして集中すると、頭のなかがずきずきしてくるのだ。)そして、今起きていることもゆっくりと味わう暇のないままどんどん消えていく。感じることがないから、記憶にも残らない。

それは考えてみると怖いことだ。自分の過去の記憶がないこと、過去の感覚を思い起こそうとしても思い出せないことは、自分が失われたような感覚を私に抱かせる。自分が不確かなものに感じられ、自分という存在が連続性をもって存在しているということが信じられなくなる。世界がどこか少しずつおかしいような気がしてくる。でもおかしいのは実は私なのかもしれない。

記憶喪失に陥った私はどうやって文章を書けばいいのだろう。今私は空白のなかから言葉を拾うようにしてこの文章を書いている。その言葉が私をどこかに連れて行ってくれることを期待しながら。目を奪う出来事に囚われないように言葉を書こうとすると、それしか方法がない。こんなことを書くのも、ぬかづきさんの「のどかな言葉」を読んだからだ。なぜ彼は、そこに書かれたような感覚を思い出すことができるのだろう。私も似たようなことを感じたことはあるはずなのに、なぜそのときのことを思い出すことができないのだろう。ぬかづきさんは研究で使う「厳密な言葉」とは異なるものとして「のどかな言葉」を運用している、と書いている。それはつかめないイメージをつかむような言葉だ。私も仕事や他人との会話で使うような実用的な言葉とは違うものとして「のどかな言葉」を書きたい。仕事に熱中するほど、その仕事によって生じる心のしこりを治めるために「のどかな言葉」が必要だと思う。それは私にとって外界を遮断してPCに向かったとき、空っぽの私のなかから生じる言葉だ。「仕事をする私」が外の世界で浴びてしまった塵を払い落としたあとに残る言葉だ。



『クリミナルマインド』というアメリカの刑事ドラマで、残虐な事件を見続けるFBI捜査官たちは、この仕事は私から何かを奪う、と互いに打ち明けるが、どんな仕事も私たちから何かを奪うのではないだろうか。そのなかにいると当たり前になってなにも感じなくなることもあるけれど。だから私は、自分自身を回復するためにみそぎの儀式のようにこの文章を書いている。

東浩紀がいま考えていること・7──喧騒としての哲学、そして政治の失敗としての博愛 @hazuma #ゲンロン240519

先日見たシラスの番組で色々考えさせられたので、感想をこちらに転記します。 「この時代をどう生きるか」という悩ましい問題について多くのヒントが示された5時間だった。