2019年11月2日土曜日

書くことは記憶を呼びおこすこと


書くことは記憶を呼びおこすことだ。リルケは若き詩人に幼年時代について書くことを勧めていたけれど、それは記憶の作用と無関係ではないだろう。詩人は深い記憶の泉から言葉とイメージを汲み出す。意識の表層に浮かぶ灰汁を漉しとることが大事なのだ。


しかし、記憶が枯れることがある。記憶をたどろうとしても何も出てこない。意識が記憶への回路をブロックしているかのように、色々な感覚が断ち切られる。別にトラウマがあるわけではない。ただ、神経が今この瞬間の情報を処理するのに忙しく、皮膚下5センチほどのところを駆け巡って、意識をのっとっているのだ。まるで記憶喪失にかかったかのような状態だ。それは今の私の状態でもある。

PCの前に座って画面をにらんでも頭のなかは真っ白。なんの記憶も浮かんでこない。最近の出来事しか思い出すことができない。今この瞬間に起きていること以外のことについて考えることも感じることも脳が拒否しているかのようだ。(実際に拒否しているのが脳なのか、それ以外の何かなのかは分からない。ただ、記憶を呼びおこそうとして集中すると、頭のなかがずきずきしてくるのだ。)そして、今起きていることもゆっくりと味わう暇のないままどんどん消えていく。感じることがないから、記憶にも残らない。

それは考えてみると怖いことだ。自分の過去の記憶がないこと、過去の感覚を思い起こそうとしても思い出せないことは、自分が失われたような感覚を私に抱かせる。自分が不確かなものに感じられ、自分という存在が連続性をもって存在しているということが信じられなくなる。世界がどこか少しずつおかしいような気がしてくる。でもおかしいのは実は私なのかもしれない。

記憶喪失に陥った私はどうやって文章を書けばいいのだろう。今私は空白のなかから言葉を拾うようにしてこの文章を書いている。その言葉が私をどこかに連れて行ってくれることを期待しながら。目を奪う出来事に囚われないように言葉を書こうとすると、それしか方法がない。こんなことを書くのも、ぬかづきさんの「のどかな言葉」を読んだからだ。なぜ彼は、そこに書かれたような感覚を思い出すことができるのだろう。私も似たようなことを感じたことはあるはずなのに、なぜそのときのことを思い出すことができないのだろう。ぬかづきさんは研究で使う「厳密な言葉」とは異なるものとして「のどかな言葉」を運用している、と書いている。それはつかめないイメージをつかむような言葉だ。私も仕事や他人との会話で使うような実用的な言葉とは違うものとして「のどかな言葉」を書きたい。仕事に熱中するほど、その仕事によって生じる心のしこりを治めるために「のどかな言葉」が必要だと思う。それは私にとって外界を遮断してPCに向かったとき、空っぽの私のなかから生じる言葉だ。「仕事をする私」が外の世界で浴びてしまった塵を払い落としたあとに残る言葉だ。



『クリミナルマインド』というアメリカの刑事ドラマで、残虐な事件を見続けるFBI捜査官たちは、この仕事は私から何かを奪う、と互いに打ち明けるが、どんな仕事も私たちから何かを奪うのではないだろうか。そのなかにいると当たり前になってなにも感じなくなることもあるけれど。だから私は、自分自身を回復するためにみそぎの儀式のようにこの文章を書いている。

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東浩紀がいま考えていること・7──喧騒としての哲学、そして政治の失敗としての博愛 @hazuma #ゲンロン240519

先日見たシラスの番組で色々考えさせられたので、感想をこちらに転記します。 「この時代をどう生きるか」という悩ましい問題について多くのヒントが示された5時間だった。