仕事をしながら大学に通うなどということは、まともなことではない。きちんと勉強するつもりならなおさらだ。もし、仕事をしながら大学に通い、それなりに勉強しようと思うのであれば、普通の生活をあきらめなければならない。普通の生活どころか生活自体がないも同然だと思った方がいい。
私はこの春に夜間の大学を卒業したが、よくもそんな無茶なことをやってのけたものだと、数か月たった今は思う。最近は仕事だけで疲れ切ってしまって、終業後に学校に通うことなんて想像もできない。
振り返ってみると、当時の生活はちょっと異常だった(笑)。仕事と通学と予復習以外何もしないという勢いで生きていた。人づきあいは避けたし、家事も生きていくために必要な最低限のことを除いてほとんどしなかった。するとしても、できるかぎり省略して時間をかけないようにしていた。というか、勉強以外のことを極力考えないようにしていた。
途中から大学の近くに部屋を借りて、そこで生活を始めた。そうしないと体力的にしんどかったからだ。大学に通うことだけを目的とした小さなワンルームのアパートだった。16平米しかなく、押入れもなかったので、最小限のものしか持ち込めなかった。(ほとんどの持ち物は千葉の貸家に置きっぱなしにした。)テレビもたんすも冷蔵庫もないのに、本棚と机はそれぞれ2個ずつあるという、生活の場としてはいびつな部屋だった。
ワンルームアパートは私にとって、普通でない生活と密接につながった存在だ。「生活のない生活」の象徴だといってもいい。「生活のない生活」とはどういうものか。生活を取り戻した今なら分かる。生活には生きることプラスアルファがある。それは日常のルーチンであったり、快適さを保つためのちょっとした努力だったりする。それらの余剰の部分は生きることにリズムと安定感を与えてくれる。生活は外界から自分を守ってくれるホームグラウンドだ。だからこそそれを維持するために努力がはらわれる。反対にいうと、努力や思いを注ぎ込むことによって出来上がるのが生活だ。
また、生活というのは目的に奉仕しないものだとも言える。目的を達するためなら、わざわざ生活の場を心地よくするための余計な努力(定期的に掃除したり、おいしい料理を作ったり、花を飾ったり)は無駄なだけだ。そのような努力によって得られる喜びは、なくてもいいものだ。
そのワンルームアパートは私にとって目的のためだけに選ばれた場所だった。だから、そこで生きることが「生活のない生活」となったのも当然の結果だ。そこに住んでいたころはいつも、どうやったら時間と体力を節約できるか、あるいは、どうやったらお金を節約できるかということばかりを考えていたような気がする。勉強のために少しでも多くの時間を確保しようと必死だったが、体力に不安があったので、できるだけ睡眠をとることも必要で、無駄なことに割く時間はなかった。週一回買い物に行ったけれど、いつもぎりぎりな気持ちだった。
あの頃の追い詰められた精神状態をどう説明したらいいのか分からない。もちろんその最大の原因が仕事をしながら大学に通うという異常な状況だったことは間違いないが、あのワンルームの空間も原因のひとつだったと言っても差し支えないだろう。あの狭い空間のなかには逃げ場がなかった。すべての機能が同じ空間のなかに押し込まれたワンルームでは、手足を存分に伸ばすことも歩き回ることもできなかった。つまり、無駄なスペースがなかった。そして、無駄なスペースがないことが私を息苦しくさせ、心が休まるのを妨げた。
今朝台所で洗いものをしながら、そういう何気ない日常的な作業が自分を安心させることをしみじみと実感し、この数年そのような安心感を持てないでいたのだということに気づかされた。
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