人は孤独を恐れる。孤独な人を哀れに思うし、孤独死を災いのように感じる。
一般に「孤独」という言葉によって人が思い浮かべるのは、周囲から切り離されて一人ぼっちな状態だろう。しかし、「孤独というのは独居のことではない」と三木はいう。独居や孤独死に表されるような一般通念としての孤独は三木の関心の範囲にはない。
彼が価値を認めるのは「より高い倫理的意義」をもつ孤独だ。そのような孤独は感情に属さず、むしろ知性に属すると三木は考える。
しかし、孤独とは感情に属するものではないのだろうか。知性に属する孤独と言われても、それがどういうものなのか簡単には想像がつかない。その意味を理解するヒントは、「真に主観的な感情は知性的である」という三木の言葉の中にある。
「真に主観的な感情」とは客観化にあらがう感情と理解することができる。そのような感情は、自分が自分自身であることによって生じ、自分と他人を切り離すものだ。このことを夏目漱石は、「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。」と巧みに言い表している。
各人は一つのspaceをoccupyする。一者がそのspaceをoccupyしているかぎり、他の者はそのspaceをoccupyすることはできない。つまり、そのspaceをoccupyすることによって見えるもの、生じる感情、考えは、そのspaceをoccupyする一者のみにしか訪れない。このように考えると、真に主観的であることは、自分のみが占める空間において自分個人に個的に訪れる物を抱きしめることだと言える。他人はsame spaceをoccupyすることはできないことを認めるなかに孤独がある。
夏目漱石におけるその自覚は『私の個人主義』という講演禄のなかで語られている。そこで彼は英国留学の話をする。官費留学生として英文学を研究するために渡英した彼は、そもそも文学というものが分からないという不安の中にあった。遠い異国の地で彼は、それまでしてきたことはすべて「他人本位」だったから駄目だったのだと悟る。漱石の専門とする英文学において「他人本位」な態度とは、西洋の識者の評価を、自己の腑に落ちようが落ちまいがありがたがって吹聴するような態度だ。漱石自身がそうであったし、時代の風潮もそうであった。しかしそれではいけないと漱石は考えた。たとえ西洋人の言ったことであっても、自分が納得できなければ受け売りするべきではないし、自分の意見を曲げるべきではない、と。そこに生じる矛盾を理解するために、彼は下宿に引きこもって、一人文芸とは無関係な書物を読み漁った。ほかの誰でもない自分自身の納得に至るまで物と向かい合うこと、それが漱石にとっての真の主観性だった。その結果として彼は「自己本位」という考えに到達する。
夏目漱石の例に従うと、知性に属する孤独とは、真に主観的な孤独というより、真に主観的であることに付随して生じる孤独だと言えそうだ。
孤独が知性に属することを言明したあと、三木は、表現と孤独との関係に話を向ける。「孤独について」の最後の段落を引用する。
「物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに応える自己の表現活動においてのほかない。…表現することは物を救うことであり、物を救うことによって自己を救うことである。かようにして、孤独は最も深い愛に根差している。そこに孤独の実在性がある。」
真に主観的に物を受け取ることは、物を表現的に受け取ることだ。夏目漱石にとってそれは英文学という課題と向き合うことだった。そのことによって彼は、文芸に対する自分の立脚地を堅め、自分の生涯の事業に出会うことができた。彼は救われた。それだけではない。彼の事業は日本文学に形をあたえた。それまで存在しなかった一つの物が彼によって新たに存在をえた。そこに愛がある。「愛は創造であり、創造とは対象に於て自己を見出すことである」と記されるとおりだ。
もちろん、物を存在させたからといって、その物が人の目にとまるかどうかは分からない。山奥に咲く花のように、誰にも見られず、秘かに花を咲かせて散っていく物もあるだろう。今や数億円の値がつくゴッホの絵画もその生前に売れたのは一枚のみだったと言われるように、誰にも認められないまま死んでいった表現者はいくらでもいる。しかし、『ひまわり』の作者はたとえ売れなくても、その絵を描き続けずにはいられなかった。まるでそれが彼の唯一の存在の仕方であるかのように。そして彼もまた新しい存在をこの世に生み出した。彼を通してしか存在することができなかった物に存在をあたえた。
山奥の花が誰に見られなくても、力いっぱい花を咲かせるように、孤独の中で物と向かい合って物を存在させることは、どのような社会的評価とも無関係な、人を人たらしめる本質的な行為なのではないだろうか。「孤独について」を読んで、そう考えた。
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