2020年3月7日土曜日

見えそうで見えない――予感の時


何かが見えそうで見えない時というのがある。身のまわりのあらゆる出来事が、何かのメッセージを隠しているように感じながら、その意味がつかめないようなときだ。突き詰めていけば何か新しい扉が開きそうな予感がある。しかし、それはまだ漠然と輪郭のない状態で虚空に漂っており、確かなものとして手の中につかむことができない。

今の私はまさにそのような状態だ。(神がかり的だといえばいえるが、スピリチュアルのくくりに閉じ込めないでほしい。このような予感は誰しもが生きていく過程で感じるものなのだから。恋愛に至るあのときめきにも通じる感覚だ。)

しかし、私にこのような思いを抱かせるものの正体は何だろう。

ここ数週間のことを振り返ると、奇妙なことに、仕事の取り組み方の変化、関心分野の明確化、仕事外での新たな取り組みの発展などの私自身の変化は、コロナウィルスCOVID19の流行による社会的変化と切り離せないかたちで動いている。例えば、2月のとある週末に鎌倉で友人と会ったこと。そのときすでにコロナウィルスの影響は出ていて、私自身、はるばる鎌倉まで出かけながら自分の体調に神経質になっていた。その時、私のなかには、自分の求めているものが漠然と見え始めていて、どうしたらいいか模索している状態だった。その日の友人との会話と、その後読み始めた三木清の文章が重なり合って心に響いた。特に『如何に読書すべきか』という文章は、それまで行き当たりばったりで定着しなかった読書の習慣について有益な示唆を与えてくれた。都合のいいことに、三木に触発されて読書の習慣をつくろうと努力し始めたとき、職場の感染症対策として今までよりずっとフレキシブルなフレックスタイムが導入され、私の仕事への取り組み方も変わった。端的に、集中して仕事を終わらせて速く帰ろうと意識するようになった。その結果として、自分の仕事の内容的な欠陥が明らかになった。一方、読書の習慣をつくろうと努力し始めて、読書の対象についても以前より確信を持てるようになってきた。

ところで、これらの変化が私にとって重く感じられるのは、それが〈形〉の変化にとどまらず、もっと根源的なところに触れていると感じるからだ。Sense of purposeとでもいえばいいだろうか。三木清を読みながら私をとらえたのは、いかに自分が精神的に渇いていたかという思いだった。信仰を捨ててからこの方ずっと、刹那的に、相対的に生きてきたが、そのような生き方によっては満たされないのだということを認識させられた。再び宗教を信じるつもりはないし、此岸にとどまり続けることが私の選択であることに変わりはないけれど、何かを求めて生きることが私らしい生き方なのだろうし、それ以外の生き方はできないのだろう、と思わせられる。

今私はそのとば口に立っている。

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東浩紀がいま考えていること・7──喧騒としての哲学、そして政治の失敗としての博愛 @hazuma #ゲンロン240519

先日見たシラスの番組で色々考えさせられたので、感想をこちらに転記します。 「この時代をどう生きるか」という悩ましい問題について多くのヒントが示された5時間だった。