2021年7月3日土曜日

満足感を与えてくれる本を探して 『古城ホテル』ジェニファー・イーガン(原題:"The Keep") ランダムハウス講談社

 

Jennifer Egan @ New Yorker

 長い間、読書にコンプレックスがあった。

 なかなか本を読み通すことができない。興味をひかれて手に取るまではいいのだが、数ページ読んで放り出してしまう。読み通せるのは、スリラーや推理小説、いわゆるページターナーと言われる純粋な娯楽小説のみ。結局、本を読まずにレビューばかり読んでいるという状態だった。レビューのほうが面白いくらいだった。

 ヴァージニア・ウルフは読書をエロチックな「恍惚状態」と表現した。私もヴァージニア・ウルフのような浸りきる喜びを感じたい。そう思って自分が本当に浸りきれる本を探し始めた。それはとりもなおさず、本に何を求めているのかを自問することでもあった。なぜ多くの本に不満を感じるのか。この物足りなさはどこからくるのか。反対にどういう本だったら満足できるのか。

  探求の末、求めているものに出会った。それが、ジェニファー・イーガンの『古城ホテル』(原題:The Keep)だ。決して平坦な出会いではない。何回もすれ違い、回り道をした末にようやく本書の中に求めているものを見出した。実は作品に興味を持って図書館で借りた後も最初の1ページを見ただけで放置していた。あるいは原文で読んでいたらもっと早くに作品の魅力に気づけたかもしれない。訳文も決して悪いわけではないが(むしろ読みやすい良心的な訳だと思うが)、残念なことに原文の持つおかしみのようなものが失われている。少なくとも最初の1ページでは。

  ジェニファー・イーガンの名前は以前から知っていた。『ならずものがやってくる』(原題:A Visit from the Goon Squad)が2011年にピュリッツァー賞を受賞して一躍有名になった彼女の存在は、愛聴しているブックレビューポッドキャストで聞いていたし、有名紙の書評欄でも何度か見かけていた。そんなわけで、アジアの片隅で欧米の出版事情を追う私も「ジェニファー・イーガン」という作家はどうやら時の人らしいという認識はあった。ただ、どの書評もそろって彼女の「斬新さ」や断片的な構成を書きたてるので「先鋭的な作家」というイメージが強く、敬遠していた。(それにしても原題のほうが格段にいいと思いませんか?「ならずもの」という語には“Goon Squad”の持ついかがわしさが足りない気がします。)

  しかし、出会うべきものにはいずれ出会うのだろう。読みたい本を探して放浪するうちに再び彼女に行き着いた。それはゴシックスリラーを探している時だった。ゴシックスリラーのおすすめリストに見覚えのある名前があると思ったら彼女の”The Keep”がメタ構造を持つゴシックスリラーとして紹介されていたのだ。「メタ構造」という言葉が決定的だった。

  実際に本を入手した後も読み始めるまでにはさらにしばらく時間がかかった。自分で自分が何を求めているかを分からないのは私の持続的な欠点だ。

  積読状態だった『古城ホテル』を本気で読み始めたのはイーガンのインタビューを聞いて彼女という人に興味を持ったからだ。熱心に自らの小説を書くプロセスについてシェアする彼女は先鋭的とは程遠い、誠意あふれる女性だった。Generousという言葉がぴったりの、心の広いアーティスト。こういう女性が書く小説はどんなものか読んでみたいという気持ちがむくむくと頭をもたげた。

  作品が私を掴んだ箇所をはっきりと覚えている。それは主人公のダニーが夜中に城に到着したものの城門が閉まっているので別の入り口を探す場面だ。イーガンは書く。「ダニーはサムソナイトとパラボラアンテナを城門のわきに置き、左側の塔のまわりを歩いてみた(選択肢がある場合には、彼はいつも左を選んだ。ほとんどの人が右を選ぶからだ)。」この括弧の記載。この記載こそがこの小説のすべてを表している。すべてというのが大げさだとしても、少なくとも小説の精神の片鱗を表している。

  『古城ホテル』という作品は、ひとまず、ゴシックスリラーというジャンルの形をかりた文学作品だと言える。ジャンル小説の形をかりた文学作品なんて特に目新しくはない。物語〈内〉物語というメタ構造もいまや常套手段と言える。では『古城ホテル』のどこがユニークなのか。『古城ホテル』を『古城ホテル』たらしめている特徴とは何なのか。『古城ホテル』の真髄を見せてみろと言われたらどう答えるのか。

  それは先ほど指摘したダニーの自意識の構造にある、と私は思う。イーガンはダニーを、絶えず世界と携帯電話でつながっていないと落ち着かないオンライン人間として造形する。彼は常時オンラインでつながっていないと不安なだけでなく、妙に自意識過剰なルールをたくさん持っている。まるでゲームのキャラクターとして自己構築しているかのように。その彼の現代的な世界観がヨーロッパの古城というゴシックな背景との結合が独特の肌触りを作っていて、そこがに面白みがある。本作はさらに、刑務所内の小説講座で囚人が書いた物語という設定であり、ロイというその囚人とホリーという講師の心の交流の物語でもある。小説講座を通じて囚人たちは変化していく。まるで物語に動かされたように。いかにも嘘くさい作り物のように聞こえる設定なのに、そうならないのがイーガンのよさだ。この設定が実にうまく織り込まれ予想外の方向へと進む。

  ジェニファー・イーガンが特異なのは、このような小説の構想は極めてスノビッシュで冷たい作品を予想させるにも関わらず、その予想を完全に裏切ることだ。彼女の小説ほど温かく人間味あふれるものはない。作者のGenerousな精神は作品世界のすみずみまで行き渡っている。ネタバレになるのであらすじを語ることはできないが、読み終わった時、ジーンとした気持ちが残った。その気持ちは、その後数日間、私を温かく包んだ。

  ジェニファー・イーガンの作品は、このような作品がこの世の中に存在するのかという驚きを与えてくれた。そもそも出会いとはそういうものだろう。おかげで私は読書の喜びを再発見することができた。今も新たな出会いを求めて新しい本を読んでいる。


0 件のコメント:

コメントを投稿

振り返り

 昨日の決心どおり、気持ちを切り替えて作業に集中できた。試験勉強をしていた時の生活に戻らないといけないのだと分かった。普通に生活しようとする限り、無理。明日から早朝に作業をすることにする。食生活も変えていきたい。 ひらめきマンガ教室の課題講評の動画が無料で公開されているという嬉し...