2024年4月28日日曜日

国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちの眠る部屋となりえてきたか?」展

 

 

昨日、上野国立西洋美術館の「ここは未来のアーティストたちの眠る部屋となりえてきたか?」展を観た感想を書いておきたい。

そもそもなぜわざわざ上野まで行ったのか。

弓指寛治さんの展示を見たい。その一心だった。

弓指寛治さんの名前を知ったのは先月末に参加したゲンロン友の会14期総会のトークショー。とにかく話が面白かった。母親の自殺をきっかけに自死遺族を取材して自殺をテーマとした作品を制作したり、満州移住したおじいさんの足跡を追って満州を題材にした作品を制作したりしていることや、制作方法にすごく興味をひかれた。

というわけで出不精な私が上野まで出かけた。上野は混んでいた。よいことだ。


企画展について簡単に説明すると、西洋美術館のキュレーターの新藤淳さんの企画による美術館の存在意義を自問するもので25人のアーティストが出展している。そのテーマは、

国立西洋美術館は、そのような「未来の世界が眠る部屋」となってきたでしょうか。本展は、多様なアーティストたちにその問いを投げかけ、作品をつうじて応答していただくものとなります。

詳しくはホームページで紹介されている。

https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023revisiting.html

前庭のロダンの地獄の門を横目に過ぎて、建物に入りロッカーの前を通って企画展に入場する。最初に展示の趣旨が書かれたパネルを読みながら進む。この展示は明確な趣旨があり、展示が意図的に構成されているので(そうでない展示なんてないけれど)、パネルの文字情報がないと理解できない。そう言う意味では文字ヘビーな展示だ。最初のいくつかの部屋は「西洋近代美術館」らしい作品群で、日本の現代の作家の作品がもととなった西洋の作品と並べられている。小沢剛さんの「帰ってきたペインターF」(ペインターFとは藤田嗣治)という展示+インスタレーションを通って、小田原のどかさんの部屋に至る。赤い絨毯敷きの部屋を靴を脱いで見る形となっていて、入り口近くの壁には、新聞の記事や写真が、四隅を黒いテープで押さえて張られている。また、資料のコピーも張られている。全部ちゃんと読んだわけではないけれど、横倒しにされた石塔の図や写真、風雪の像の新聞記事がこの展示全体に意味のあるものであることは分かる。部屋の奥には赤い床の上にブロンズの石像が横倒しになって、底の空洞が見えている。立っていると黒光りして立派なブロンズ像も、底を見せて床に横になっているとまぬけに見える。でもすべてが横倒しになっているわけではなくて、まんなかに赤い五重塔がたっている。また、右奥の壁には、以前シラスチャンネルと小田原さんの著作で見た西光万吉の掛け軸が飾られている。また、小田原さんが利用した参考文献も数冊並べられ、手に取ることができる。手に取ると、付箋がびっしり貼られ、鉛筆で線が引かれている。一周して靴を履き、入り口横の壁の長い説明(小田原さんによる文章)パネルを読む。パネルを読んで初めて意味が分かった展示もあり、再度靴を脱いで見に行った。彫刻家×評論家である作者の展示である故か、作者の手による美術品(絵や彫刻)はほとんどなく、いろいろな作品や記事を組み合わせたものを、読み解くという作りとなっているのが面白かった。反対に、意味を読み取ることなしに意味をなさない展示と言うこともできる。

なんか小田原さんの作品を見るまでにすでに疲れていて、そのあとは割と早足で通り過ぎたのだけれど、興味を引かれたのは飯山由貴さんの展示。西洋画家の作品がかけられた壁のすきまに、西洋美術(館)の歴史がびっしりと手書きで書かれている。ただ、文字が細かく、肉眼では見えない天井近くまで書かれているため、文章として読むのには向いていなくて(読んだ人もいたのかな。私は無理だった)、どちらかというと壁全体がひとつの「美術作品」という感じがした。それが、同じ手書き文字情報を提示する弓指寛治さんの作品と決定的に違った。

お目当ての弓指寛治さんの展示は、階段を上って最初の部屋。階段途中の踊り場から展示が始まる。暗い絵が階段下の壁に貼られていて、よく見るとホームレスの人が背中を向けてベンチに寝ている絵だった。夜闇の暗さをそのまま描いているので、最初は何が描かれているのか分からず、よく見ないと判別がつかない。それは夜道を歩いているときの感覚そのもので、そのようにして、観客としての私も上野公園を歩く経験を追体験する。さらに、キュレーターの新藤さんの絵と作者が新藤さんからこのプロジェクトを持ちかけられた経緯が書かれたパネルが掲げられ、上野の路上生活者による歴史的な抗議運動が、モノトーンで描かれた絵が続く。間の壁には、プロジェクトを持ちかけられた作者が、周囲の人に「ホームレスの知り合いいませんか?」と聞いてまわったというセリフの吹き出しが、ぽんと貼られている。吹き出しは、展示全体を通じて要所要所に貼られているのだけれど、漫画や絵本みたいな効果を観客にもたらす。その一言で、作品世界に入り込む錯覚を与えられる。階段沿いの壁の絵を見ながら上って頂上につくと、正面に背丈以上の大きなパネルが立ち、山野の様子を映すカラフルな絵が私を迎える。その配置も、まるで作者と一緒になって初めて山野に脚を踏み入れたような感覚を与えてくれる。また、壁の絵の間を縫ってお弁当箱の小さな絵が浮かんでいるのが、友愛会の活動でお弁当を配っていたのを表していて、そういう絵本の世界のような演出も魅力的だ。山野のどやの様子や、友愛会のスタッフ、コスモス会の活動などの大小の絵が壁に飾られ、適所適所に吹き出しとパネルが貼られているので、無理なく作品世界を歩くことができる。そして、そこに描かれる人々の人生にいつのまに興味を抱いている。何人か深く話せた人の話が紹介されていて、思わず涙ぐむ。一つのセクションでは壁一面が上から下までどやの部屋でのポートレイトで埋め尽くされている。それがまた圧巻で、その人々の人生が迫ってくる。さらに、あっと思わせられたのは「あなたのこと知ってる。いつも前の道歩いているでしょ?」といセリフの吹き出しを読んだとき。それに対して「私 新藤と申します」「国立西洋美術館の学芸員です」と新藤さんが答える吹き出しが続く。上野という場所を職場として日々、ホームレスの人々を目にしながら何もできないのを自覚して、なんとかしてこのプロジェクトをしたいと企画した新藤さんの姿が生々しく浮き上がった瞬間だった。

弓指さんの展示は、生き生きとしたパワーがあって引き込まれると同時に、重苦しくならない形で考えさせられ、知らず知らずのうちに心が動かされていた。それも、美しい「美術品」を見ているという感覚ではなく、もっと素の感覚で触れることができた。それは作品が美術品として閉じず、もっと素朴な形で楽しめるものとして企画されていたから。その点が、同じような文字情報を使いながらも美術品として閉じていた飯山さんの作品と違った。

社会のことをどうやって描くのか、表現をする人にとって悩ましい問題へのヒントにつまった展示だった。

腰の重い私だけれど、見に行けてよかった。

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