“我が一族直系の男子の名は代々、黄金と没薬と乳香を携えて東方からベツレヘムの厩を訪れたあの三人のマギの名から取ることになっていた。即ちカスパール、メルヒオール、バルタザールである。
このような仰々しい出だしで始まる『バルタザールの遍歴』の設定は、最初の2ページで明らかになる。即ち、主人公はハプスブルク家の血を引く由緒正しい貴族の家系に属し、二人でありながら、一人とみなされること。
さらに数ページ進めば、メルヒオールとバルタザールの二人の人格が一つの体に共存すること、彼らの家族が没落しつつあることもわかる。
ここで、なぜ作者はオーストリア=ハンガリー帝国を舞台としたのかと考えることは無意味だろう。作者がかつて留学生としてフランスに住んでいたことを知って何になるのか。ただ作品がそれを必要とするからと言えばそれで十分だ。作者自身、作品を「意味」や「意図」で判断することを否定しているのだから。
そこで「作品の表面に留まる強さ」を求める作者にならって、作品の表面をなぞりながら本作について考えてみたい。
二つの人格=語り手の二重構造を原理とする本作は形を変えた双子ものだ。そう気づくと、本作が同じような双子ものの漫画『CIPHER』と二重写しに見えてくる。兄のバルタザールはシヴァ、弟のメルヒオールはサイファ、従姉妹のマグダはアニスだ。
ちなみに、『CIPHER』とはニューヨークの高校に通う俳優の双生児が二人一役を装い、交代で通学し、他の人との間に壁を作り周囲を欺きながら生活する物語だ。しかし、同級生のアニスが二人の正体に気づいて近づいてくることで、二人の世界が崩れる。
同じように、本作の中心をなす関係はなんだかんだ言ってバルタザールとメルヒオールとのホモソーシャルな関係で、二人は二人(だけ)の世界のなかに住んでいる。周囲で戦争が起ころうが、ナチスに追われようが、それは変わらない。女性たちも彼らの周縁を過ぎていくに過ぎない。ただ、サイファとシヴァは、アニスという自分達を個人として愛してくれる他者の出現によって自立していくが、バルタザールとメルヒオールには、その契機がない。マグダという二人を認め愛してくれる女性が身近にいるにも関わらず、彼女と真剣に向かい合うこともないまま、本心の分からない義母にのめり込み、やがて捨てられる。
夏目漱石は「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」と書いたが、しかし、もし二個の者がsame spaceをoccupyしてしまったらどうなるのか。その者たちは本当に二個の者でいられるのか。同じ体を占有(occupy)するバルタザールとメルヒオールはこの不可能の上に存在する。そして、分離と一体化の間で揺れながら、結局分離しきれず、個を確立することができないまま互いを唯一の伴侶として生きることを選ぶ。それも積極的に選ぶというよりはそう余儀なくされる。メインの語り手がメルヒオールでありながら題名が『バルタザールの遍歴』なのは、相手を陰で裏切り、義母との間に自分だけの世界を持とうして失敗したのがバルタザールだったからだろう。
この展開、何かを思い出さないだろうか。そう、我が国の国民文学、『こころ』だ。新しい時代に適合できず個人主義を貫けないところまで似ている。しかし『こころ』ではKも先生も自殺してしまうのと異なり『バルタザール』では誰も自殺などしない。それはバルタザールが女に捨てられて弟とよりを戻したからでもあるが、そもそもこの作品には『こころ』の陰鬱さはない。どんなに悲惨な状況に陥っても二人の兄弟の行動は喜劇になってしまう。
互いから逃れられない二人は、酒に溺れ、新しい町に移り住むことで、記憶を消し去ろうとする。結局、今は亡き世界に生きる彼らは「すでにこの世に存在しない土地を懐かしみながら、幾らかましな土地を求めてさ迷い暮らすより他ないのだ。」属する場所を持たない者は逃げ続けるしか道はないのだ。例えそれが酔狂に過ぎないとしても。
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