2019年12月29日日曜日

ノート魔の快楽




「私ノート魔なんです」

そう言って彼女はノートを開いた。そのA4サイズのリング式のハードカバーのノートは、彼女の鉛筆の文字で埋まっていた。テーマに関係なく、考えたこと、講義のメモ、本の覚書、なんでも書いているということだった。フィールドワークのノートと日記は別につけているとも教えてくれた。

私は興味津々で彼女のノートを覗いた。ただでさえ他人のノートを見ることは快楽のようなところがある。その上、当時の私はノートの取り方を求めて試行錯誤していたので、他人がどうしているかを知りたいという気持ちもあった。彼女のノートを見せてもらえるという願ってもいないチャンスに飛びつかないわけがなかった。

そのノートに触発されてさっそくハードカバーのノートを二冊買った。A4のものとB5のものだ。一冊は何でも書き込むために使い、もう一冊は仕事の案を練るために使うことにした(その彼女にとってのフィールドノートのようなものかもしれない)。なんでも書くノートを作ってから、書き留めておかなければいけない様々な事柄をどこに書けばいいか迷う必要がなくなった。それなりの厚さがあるので書くことを躊躇しないですむし、ある程度の量の情報を貯えておいて、あとから見返すことができる。仕事で受ける断片的な指導を、順番を考えずに、とりあえずの置き場として、そのノートに書き留めておくことができる。そのノートに書いてあると分かるので、次に必要になった時にどこを見ればいいか分かる。いずれ情報がたまったら、テーマごとにまとめなおせばいい。

ノートを書くことには「快感」が伴う。それは身体的な感覚だ。ワープロの真っ白な画面に向かって文字を打ち込む行為にも独特の快感があるが、紙に文字を書くという行為には、それとは異なる格別なセンセーションがある。鉛筆が紙に引っかかる感覚、手の下で文字が形作られていく感覚に魅了される。文章を書くときに、まず紙に向かって書かないと書けない時がある。流れに乗ってからやっとワープロに移る。

「数学する身体」ならぬ「書く身体」と言ってもいいかもしれない。それは、書く人ならだれでも多かれ少なかれ持っている感覚ではないだろうか。ニューヨークタイムズの書評家パール・セガールは写真家のテジュ・コールとの対談で、書く時の身体的な感覚についてこう言う。「それってとても話しにくい。身体的な他のエクスタシーととても近いから。」続けて彼女は、書く時の感覚を走る時の感覚と重ねる。「今日、音楽なしで走ってきたのだけれど、自分の体の重さを運ぶ感覚を強く感じた。片方の脚から他の脚に。その時、原稿を閉めようとしているときのあの感覚、書いているなかで精神が筋肉のように働くあの瞬間を思い出した。筋肉が伸びる感覚、ひきつる感覚、疲労する感覚」。もちろん、書くことと走ることとの間にパラレルを見出したのはパール・セガールがはじめてではない。村上春樹がその著書『走ることについて語るときに僕の語ること』でしようとしているのは、まさにそれなのだから。
もしかしたら、私は紙に文字を刻みつけることによって、時間を止めようとしているのかもしれない。書くという行為は流れていくものを留めておくためにする行為だが、そこで鉛筆、またはペンで、紙に書き記すのは、より確かに刻みつけるための、自身の身体を介して自身の身体に刻みつけるための儀式のようなものなのかもしれない。それに対して、ワープロの文章というのは逃げていくという感覚がある。それはワープロの文章というのが結局は電子的に貯蔵されるデータだからかもしれない。

そしてノートが文字で埋まっていくと、今度はぎっしり詰まった文字を見るという快楽がある。それはワープロ文書からは得られないセンセーションだ。他人のノートを見る喜びもここから来ているのではないかと思う。

文字を書くことの快感がどこから来るのかは分からない。ただそれは、人が音声によって何かを表現したいと思った衝動と通じるものがあるのだろうと思う。

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