2020年1月11日土曜日

中身の空っぽさは、克服できるのか



ものや人について「中身がない」というとき、そこには軽い侮蔑の念が含まれている。その言葉は、対象が軽薄で信頼に値しないことを含意する。

確かに中身がないものは人を興ざめさせる。しかし、気がつけば私自身が誰よりも空っぽなのだった。その自覚は、自己嫌悪の波となってわたしを襲う。

自分の空虚さに対する自覚は早くは学生の頃からあった。大学2年の冬に洗礼を受けたのも、一つには、その自己嫌悪に突き動かされてのことだった。変わりたかったのだ。しかし、信仰生活はさらなる中身の空白化を招いた。こんなことを言うと多くの信仰者は憤慨するだろう。信仰のあり方は多様なのだから、皆が皆空っぽなわけではないと思う。しかし、信仰が中身の空白化を招くと言うにはそれなりの理由がある。宗教はよくできたものであればあるほど、自己完結する論理構造を持っている。批判的に教義を突きつめる信仰者もいるだろうが、一般的にはそうしないだろう。その論理構造を疑わないことが信仰の平安をもたらすからだ。また、信仰のおおもとを疑うことは信仰の正当性を覆し、信者コミュニティのなかでの信仰者の居場所を危ういものにしかねない。

私にとって、信仰生活が不可避的に中身の空白化につながったのは、考えるよりも行動することを重んじ、知識を軽んじる(時には疎む)信者集団の傾向と、信仰の中にこそ答えがあると信じ、信仰を実践することに意義を感じ、時間のかかる勉強に真剣になれなかった私自身の軽薄さとが、不幸にも合致したからだった。このような傾向は宗教にかぎらず、他の若い人の活動のなかにも見られることは付言するまでもないだろう。

私が自分の中身のなさを嫌でも痛感させられたのは、大学を卒業して社会人になってからのことだった。新社会人としての日々は、信仰と善意だけでは責任をもって仕事を前進させることはできないという事実を身をもって経験する日々だった。

ここでもまた、中身のなさに対する自己嫌悪が変化の誘因となった。私は、何かの専門知識を身につけて専門職につこうと思って仕事を辞めた。

前置きがだいぶ長くなった。「何かの専門知識を身につけて専門職につこうと思って仕事を辞め」てからもう15年が経つ。その間、数年かけて国家試験を受験するとともに、大学に入りなおして化学を勉強し、ついに化学専門とする弁理士となった。

そこで最初の問いに戻る。すなわち、中身の空っぽさは、克服できるのか。

この問いは「中身」とは何かという問いを含むとともに、より具体的な次元では、「専門家」とは何かという問いにも関わる。

「中身」を「知識」に限定してしまっていいのかという疑問は残るけれど、「知識」がその主要な部分を占めることは疑いないだろう。また、知識を伴わない中身もなさそうだ。ただし、その知識は何でもいいわけではない。雑学に長けた人を私たちは「中身がある」とは言わない。知識の理解が必要だし、深さが求められる。しかし、「理解」という言葉も「深さ」という言葉も抽象的だ。そこで、仕事の場という具体的な例に限定して「中身」とは何かを考えたい。すると、そこには一人の専門家の像が浮かぶ。その専門家は何を聞いても的確に答えてくれる。アクションを起こす場合にあらゆるケースを想定して、最善の道を示してくれる。また、何を求めているかを顧客自身が分からない場合であっても、何を求めているのかを見抜いて提示することができる。彼/彼女にまかせておけば必要なアクションを取ってくれるだろうと信頼できる。

この専門家の像を考えることで、専門家の中にある知識がどういうものかを推測することができる。どのような問いにも答えられるほどの知識、あらゆるケースを事前に想定できるための知識。そのような知識とは一体どういうものだろうか。

ある哲学者の言っていた「世界史のマップ」という言葉を思い出す。世界を認識するための「マップ」だ。彼は、古典はその中に多くの議論を宿しているので、古典を読むことがマップを作るための訓練になると言い、「世界観」という言い方もしていた。彼のこの言葉に納得するのは、同業者を見ていて、仕事ができる人は、「マップ」を持っているように見えるからだ。法律家にとっての「マップ」は法律(審査基準を含む)と判例だが、彼らはどこからスタートしても、法律に結びつけることができる。あるいは、大学で取った応用物理学の授業の先生を思い浮かべる。彼は、どのような角度からの質問に対してでも原理から説き起こして説明してくれた。彼はそれを「ストーリー」と呼んでいたが、それは物理に関する「マップ」と言い換えることもできる。どこから入っても、原理から説明する道筋を見つけることができたのだ。彼のことをよく覚えているのは、大学で教わった先生方のなかで私の疑問に納得のいく答えをしてくれたのは唯一彼だけだったからだ。彼は自分のことを物理のプロとも呼んでいた。

このように見てくると、私にとっての「中身」とは職業上の専門の「マップ」を持つことだと言えそうだ。この「マップ」を形成する知識は非常に特化した具体的なものだ。それは法律の条文であり、審査基準であり、判例であり、あれこれの公的文書だ。と同時に、それは高分子の知識であり、無機結晶の知識であり、抗がん剤の知識だ。(あくまで私の場合は。職業ごとに必要とされる知識の範囲は違うだろう。)それは、「中身」として当初想像していた内容よりもだいぶ狭く感じられるが、あれこれ広く知っていても、幹となるものがなければ、それらの知識はなんの意味もない雑学に過ぎないのだから、狭さは必要条件なのだろう。知識を深めて専門を形成するためには狭い領域を掘り下げるしかないようだ

したがって、「中身の空っぽさは、克服できるのか」という問いに対しては、自分を狭くすることによって可能だと考えるしない。その方法についても考えているが、この文章が予想外に長くなってしまったので、またの機会に書こうと思う。




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東浩紀がいま考えていること・7──喧騒としての哲学、そして政治の失敗としての博愛 @hazuma #ゲンロン240519

先日見たシラスの番組で色々考えさせられたので、感想をこちらに転記します。 「この時代をどう生きるか」という悩ましい問題について多くのヒントが示された5時間だった。