三木清の『人生論ノート』が面白い。(恥ずかしながら、この年齢まで三木清の名もこのエッセー集の存在も知らなかった。高校入試関連の仕事をしていた友人によれば、試験問題でよく使われるそうなので、知らなかった私が無知なのだろう。)
このエッセー集は、著者が死、幸福、怒りなどのお題について考えを述べるという構成になっている。どのテーマも誰にでも通じる普遍的なものであり、文章の長さも手ごろなので、日常の隙間時間に思考するのにちょうどいい。三木清の哲学への入り口としてもうってつけだ。
この作品のなかから気に入った章を選んで紹介したい。
最初に取り上げたいのは「感傷について」の章だ。
なぜ「感傷について」なのかと言えば、まるで自分のことのように感じたからだ。若い頃、落ち込んで泣き崩れたり、ふさぎ込んでしまうことがしょっちゅうで、あなたほど不安(insecure)な人は見たことがないと言われたものだが、その性格は今も変わっていない。「感傷について」を読んで、そのような感情の動きが「感傷」だったのだということをやっと理解した。
しかし、私がこう書くからといって、「感傷について」が心の弱い女子に対する精神的処方箋のようなものだと思われたら、それは心外だ。この文章は、「癒し」とは何の関係もない純然たる思索の賜物であることを断っておきたい。
三木によれば感傷とは「坐って眺めている」ものであり、「感傷は、何について感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない」。また、「感傷は愛、憎み、悲しみ、等、他の情念から区別されてそれらと並ぶ情念の一つの種類ではない。むしろ感傷はあらゆる情念のとり得る一つの形式」であり、「すべての情念のいはば表面にある」ものだと考えられる。
三木が感傷を批判するのは、それが人を過去にとどまらせ、創造的な活動を妨げるからだ。三木は感傷を情念と対比させ、「情念はその固有の力によって創造する、乃至は破壊する。しかし感傷はそうではない」と書く。情念が創造または破壊するとは一体どういうことなのか詳しい説明はない。しかし、例えば故緒方貞子がインタビューでその精力的な活動の原動力はどこからくるのかと聞かれたときに「怒りです」と答えたのは、情念による創造の例と言えるだろう。また、フェイスブックの創業者、マーク・ザッカーバーグがガールフレンドにふられた腹いせにハーヴァード大学の女子寮生のランキングサイトを作り、それがフェイスブックの開発につながったというのも、怒りが創造につながる例と考えられるかもしれない。いずれにせよ、大きなことを成し遂げるには強力な情念が必要なのは誰しもが認めることだろう。
とはいえ、すべての情念が創造につながるかは疑問だ。三木自身、「情念はその固有の力によってイマジネーションを呼び起こす。…イマジネーションは創造的であり得る」と書くが、「イマジネーションは(必ず)創造的である」とは書いていない。また、『人生論ノート』の他の章を参照しても、必ずしも、個々の情念が創造的であるようには読めない。例えば、「嫉妬について」の章を見ると、「嫉妬からは何物も作られない」と書かれている。嫉妬心を乗り越えるためには「自分で物を作ること」が必要なのだとも書かれている。
情念の表面にその一形式として存在する感傷は、私たちを気持ちよくさせる。悲しみに泣き崩れるときも、そこにはカタルシスがある。それゆえ感傷は「誘惑」となる。思索する者が特に陥りやすい甘美な誘惑だ。感傷が思索する者にとって誘惑となるのは思索が精神的な運動であるのに対して、感傷が精神的な休憩だからだろう。「感傷について」全体を通じて、「感傷」は「坐って眺めている」、「止まっている」、「静止が必要である」というように静止状態として描かれている。
では、感傷的でない思索とはどのようなものなのか。どのようにして感傷から逃れればいいのか。そのために必要なのは「物の中に入ってゆく」ことであり、「行動人としての如く思索」することだと三木は言う。「行動人としての如く思索」するとは一見不思議な物言いに思えるが、三木の考えに従えば不思議でもなんでもない。ここで、「物の中に入ってゆく」例として、西田幾多郎の文章を参照したい。西田は言う。「私はしばしば若い人々にいうのであるが、偉大な思想家の書を読むには、その人の骨のようなものを掴まねばならない。そして多少とも自分でそれを使用し得るようにならなければならない」と。三木の言う「物の中に入ってゆく」ことは「骨のようなものを掴む」ことに対応する。骨を掴むためにはただ書を漫然と受動的に読むのではなく、文章と格闘しなくてはいけない。それは絶えざる自問を伴い、文章を何度も読み直したり、書から離れて考えたりすることも必要とする。〈骨〉とは、そのようにして考え考え読んでいく中でやっと見えてくるものだと思われる。そのような読書、あるいは思索は、骨の折れる作業だ。倦まずたゆまず考え続けることを人に求める。だからこそ「思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ」と三木は言うのだろう。
改めて考えると、感傷は思索とは完全に異なる心的態度だということが分かる。今までの私はいとも簡単に感傷の誘惑に負けていたのだということも。しかし、感傷の中に止まっていたいとは思わない。どこまでも冷徹に、クリアに世界を見られるようになりたい。三木は「感傷について」を通じてその方法を示してくれた。
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