みんな真っ先に問うことを棚に上げるから、授業が盛り上がらない。「心理学って言ったって色々あるんだよ」「哲学って言ったって色々あるんだよ」「キリスト教って言ったって色々あるんだよ」と真面目な先生ほど学生に向かってさとすが、しかし、(続く)
これは、学生にとってはなんだよそれということになる。一言で言うために、たくさんの本をあんたたちは読んできたんでしょと。ご託を並べるのなら、時間かければ誰でもできる。しかし、その〈一言〉が言えるために先生は偉いのだから。
ページ数を、あるいはコマシラバスの字数を稼ぐとすれば、「色々あるんだよ」というところを積み上げればなんとかなるが、「心理学とは何か」に「色々あるんだよ」なしで取り組むとなると書き手の根性が見えてくる。様々な通説や有名な研究者の引用ばかりでは答えられないことが起こってくるからだ。
心理学を初めて学ぶ学生たちにとって、一番有意義なことは、まだ心理学が隠しているもの、隠さないと生存できないものを明らかにすることでしかない。それがどんな分野の学問にとっても、入門の意義なのだ。つまり出門でないような入門はないのです。
この〈入門〉の時間性を〈歴史〉というのです。
かといって、中西先生は日本一立派なコマシラバスを今さら書き直すわけにはいかないだろうから、すべての種別的な心理学を終えたあとで、それらを論理的に貫いている基盤をじっくり語るコマを二コマくらい入れるべきだと思う。違っている各心理学が実は同じものだったと。
複雑そうに見えたものが、実はとても単純な原理で動いていたと。それが見えない講義は、知的弱者(学生)に対する単なる脅し(あるいは優越的自慢)でしかない。、
以上、中西先生のコマシラバスへの真摯な取り組みに乾杯!
ちなみに、関連個所を今回のシラバス論(晶文社)から抜き出してみる(77頁)。
昔の大学では、〈概論〉を担当する教員はその学部・学科を研究者として代表する教員だった。その理由は若手教員では専門的過ぎて概論を論じるだけの能力がなかったからである。〈概論〉科目は専門を脱する力、専門を大所高所から論じる力がないと担えない。
そして〈専門〉を脱するには専門の頂点(End)に立った研究者以外には無理なことだ。頂点(End)からしか、すそ野の広がりと入り口(入門)は見えないから。
ヘーゲルもまた「ミネルヴァのふくろうはたそがれがやってくると飛びはじめる」(『法の哲学』中公クラシックス、2001年)と言ったし、
ドゥルーズもまたそれとは別の意味で「『哲学とは何か』という問いを立てることができるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいておそらくほかにあるまい」(『哲学とは何か』河出書房新社、1997年)と言う。
ヘーゲルにとっては時間の真理は時間の否定(時間の〈終わり〉)だった。ドゥルーズの「…とは何か」という問いはヘーゲルと違って「具体的なもの」について語ることと関わっているが、それもまた専門性がものを見えなくするからだ。(『シラバス論』77頁)