2020年3月19日木曜日

「シリコーン」を通じて「化学」について考える



最近、「シリコーン」について勉強している。きっかけは、仕事でシリコーンに関わる案件が何件かあって、スーパーバイザーに「シリコーンの合成方法、知っていますか?知らなかったら自分で勉強しておいてね」と言われたことだった。

ちなみに「シリコーン」とは、ケイ素と酸素のシロキサン結合(Si-O)の主鎖に有機基が結びついたポリマーのことだ。ポリマーというと、炭素が何個も鎖のように連なっている長い化合物を指すことが多いのだけれど、炭素の代わりに-Si-O-が連なった鎖というわけだ。炭素ベースのポリマーと言えばプラスチックで、プラスチックは今や身のまわりのあらゆるところで使われているのは周知のとおりだが、シリコーンは、炭素ベースのポリマーほどではないにせよ、シャンプーやリンス、化粧品などの日用品にも使われているし(山谷正明[監修]、信越化学工業[編著]、『シリコンとシリコーンの化学』)、コンタクトレンズや乳房インプラントなどの特殊な用途にも使われており、私たちの生活に意外と浸透している。

2020年3月15日日曜日

[メモ]〈概論〉とは(芦田宏直2020.03.15ツイート)

みんな真っ先に問うことを棚に上げるから、授業が盛り上がらない。「心理学って言ったって色々あるんだよ」「哲学って言ったって色々あるんだよ」「キリスト教って言ったって色々あるんだよ」と真面目な先生ほど学生に向かってさとすが、しかし、(続く)

これは、学生にとってはなんだよそれということになる。一言で言うために、たくさんの本をあんたたちは読んできたんでしょと。ご託を並べるのなら、時間かければ誰でもできる。しかし、その〈一言〉が言えるために先生は偉いのだから。

ページ数を、あるいはコマシラバスの字数を稼ぐとすれば、「色々あるんだよ」というところを積み上げればなんとかなるが、「心理学とは何か」に「色々あるんだよ」なしで取り組むとなると書き手の根性が見えてくる。様々な通説や有名な研究者の引用ばかりでは答えられないことが起こってくるからだ。

心理学を初めて学ぶ学生たちにとって、一番有意義なことは、まだ心理学が隠しているもの、隠さないと生存できないものを明らかにすることでしかない。それがどんな分野の学問にとっても、入門の意義なのだ。つまり出門でないような入門はないのです。

この〈入門〉の時間性を〈歴史〉というのです。

かといって、中西先生は日本一立派なコマシラバスを今さら書き直すわけにはいかないだろうから、すべての種別的な心理学を終えたあとで、それらを論理的に貫いている基盤をじっくり語るコマを二コマくらい入れるべきだと思う。違っている各心理学が実は同じものだったと。

複雑そうに見えたものが、実はとても単純な原理で動いていたと。それが見えない講義は、知的弱者(学生)に対する単なる脅し(あるいは優越的自慢)でしかない。、

以上、中西先生のコマシラバスへの真摯な取り組みに乾杯!

ちなみに、関連個所を今回のシラバス論(晶文社)から抜き出してみる(77頁)。

昔の大学では、〈概論〉を担当する教員はその学部・学科を研究者として代表する教員だった。その理由は若手教員では専門的過ぎて概論を論じるだけの能力がなかったからである。〈概論〉科目は専門を脱する力、専門を大所高所から論じる力がないと担えない。

そして〈専門〉を脱するには専門の頂点(End)に立った研究者以外には無理なことだ。頂点(End)からしか、すそ野の広がりと入り口(入門)は見えないから。

ヘーゲルもまた「ミネルヴァのふくろうはたそがれがやってくると飛びはじめる」(『法の哲学』中公クラシックス、2001年)と言ったし、

ドゥルーズもまたそれとは別の意味で「『哲学とは何か』という問いを立てることができるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいておそらくほかにあるまい」(『哲学とは何か』河出書房新社、1997年)と言う。

ヘーゲルにとっては時間の真理は時間の否定(時間の〈終わり〉)だった。ドゥルーズの「…とは何か」という問いはヘーゲルと違って「具体的なもの」について語ることと関わっているが、それもまた専門性がものを見えなくするからだ。(『シラバス論』77頁)



2020年3月14日土曜日

三木清『人生論ノート』から(2) 「孤独について」を読んで


人は孤独を恐れる。孤独な人を哀れに思うし、孤独死を災いのように感じる。

一般に「孤独」という言葉によって人が思い浮かべるのは、周囲から切り離されて一人ぼっちな状態だろう。しかし、「孤独というのは独居のことではない」と三木はいう。独居や孤独死に表されるような一般通念としての孤独は三木の関心の範囲にはない。

彼が価値を認めるのは「より高い倫理的意義」をもつ孤独だ。そのような孤独は感情に属さず、むしろ知性に属すると三木は考える。

しかし、孤独とは感情に属するものではないのだろうか。知性に属する孤独と言われても、それがどういうものなのか簡単には想像がつかない。その意味を理解するヒントは、「真に主観的な感情は知性的である」という三木の言葉の中にある。

2020年3月7日土曜日

見えそうで見えない――予感の時


何かが見えそうで見えない時というのがある。身のまわりのあらゆる出来事が、何かのメッセージを隠しているように感じながら、その意味がつかめないようなときだ。突き詰めていけば何か新しい扉が開きそうな予感がある。しかし、それはまだ漠然と輪郭のない状態で虚空に漂っており、確かなものとして手の中につかむことができない。

今の私はまさにそのような状態だ。(神がかり的だといえばいえるが、スピリチュアルのくくりに閉じ込めないでほしい。このような予感は誰しもが生きていく過程で感じるものなのだから。恋愛に至るあのときめきにも通じる感覚だ。)

しかし、私にこのような思いを抱かせるものの正体は何だろう。

東浩紀がいま考えていること・7──喧騒としての哲学、そして政治の失敗としての博愛 @hazuma #ゲンロン240519

先日見たシラスの番組で色々考えさせられたので、感想をこちらに転記します。 「この時代をどう生きるか」という悩ましい問題について多くのヒントが示された5時間だった。