2020年4月4日土曜日

心が疲れたときに再生するための習慣の力



私は普段、朝6時前に家を出て仕事に向かう。つい最近までその時間の町はまだ暗く、街灯の明かりに照らされて駅へと向かわなければならなかったが、まだ寝静まっている家も多い中、必ず明かりの灯っている団地の一室があった。窓の大きさと位置からしてダイニングキッチンの明かりだと思うのだが、角を曲がってその光が目に入ると、「いってらっしゃい」と言われているようで心温まった。その家の前を休日に通ると、たくさんの洗濯物が長い竿に規則正しくずらりと干されている。今日のように何枚もの布団が干されていることもある。どのような人々がその部屋に住んでいるのかは知らないけれど、その規則正しい生活の形が私を安心させてくれる。
 
生活の形を与えるのは習慣の力だ。三木清は『人生論ノート』の「習慣について」の章の中で、習慣は生命的なものであり、「それは形を作るという生命に内的な本質的な作用に属している」と書く。また、流行と習慣とを対比して、「流行においては主体は環境に対してより受動的であるのに反して、習慣においてはより多く能動的である」と述べる。習慣がより能動的であるのは、それが自己の模倣だからだ。そして、そのような習慣は、第一に家庭の中で作られる。それが、家庭が外部(社会)に対する砦になる所以だろう。
 
子どもの頃、親のもとで暮らしていた時に感じていた安心感を、独立して自分で家を持ってから感じられなかったのは、そこに生活を形作る習慣がなかったからだ。子ども時代の生活には家族としての形があった。毎朝父の読む新聞のにおい、夏夜のナイター放送の声、母が夕食を用意する音、お腹を空かして夕食を待つ時間の待ち遠しさ、毎晩恒例の夕食後しばらく経ってからのデザートの時間、クリスマス・イブのご馳走等々。季節ごとの行事があり、それが季節感をもたらしてくれた。それは両親、特に母が形作ってくれていたものだった。母も一人で暮らしていた時にはそのような日々の習慣を持っていなかっただろうが、子どもを持ってからは、生活の規則性を作る存在となった。多くの親が子どものためにそうするように。

独身で一人暮らしをしている人に生活感がないのは、そのような守るべき習慣がないからだとも言える。以前、遥洋子さんが著書のなかで、自分の生活は(結婚するまでの)仮住まいのように感じる、というようなことを書いていたが、それもこのことと関わると思える。つまり、彼女は、結婚して家庭を持った状態が生活の最終形態のように感じていて、それまでは生活の形を定めることをしない(する必要がない)と考えているのだ。それは彼女に限ったことではなく、一般的な傾向だろう。生活の形を定めずに、自分の欲求と社会的な必要性のみで生活していることが、生活に仮住まいで地に足のついていない感じを与える。それは、自分の生活が社会に対してそのまま晒されている状態でもある。


 
しかし反対に、たとえ独身の一人暮らしで、自分一人のためでしかなくても、自らの習慣を形作っていけば、生活に形を与えることができる。その習慣は、安心感と力を私たちにもたらしてくれるだろう。そして、その力によって、私たちは不安から解放され、再生されるだろう。
 
このようなことを延々と書いてきたのは、今の私の心の疲れが仕事やそれにまつわる人間関係に心身が乗っ取られているところから来ていることを実感しているからだ。そして、そのような社会に晒されっぱなしの自分の心身を守るには、自立した生活の形を作る必要があり、それは生活の習慣を持つことに他ならないと気づかされたからだ。
 
このようなことを考えるきっかけとなったのは+Mさんのルーティンに関する一連のツイートだった。そこで彼は「近代以降の都市生活者は、自らの生活のルーティンを確立せず、直感を錆びつかせてしまっているので、他人の言葉に過度に反応性が高くなっているのではないか」との意見を表明している。参考までに、ここにリンクを貼っておく。
https://twitter.com/freakscafe/status/1236508889190821888

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