目が覚めると、もう明るい。寝坊をしたのかと焦るが、時計を見るとまだ6時だ。最近は日の出が早いため、起きるとすでに日が高くて損をした気分になる。でも6時ならまだ余裕だ。散歩してゆっくり朝食をとって8時には仕事を始められる。すっかり在宅勤務ペースが身についてきた。と思っていると、ふと何かが記憶のかたすみで動く。あら?今日仕事あったっけ?
「今日はゴールデンウィークです。仕事はありません」と声がつぶやく。
とはいえ、いつもと何が違うのかというと、とくに何も思い浮かばない。普段と変わらないごく普通の朝だ。大型連休に付随してしかるべき祭りのような楽しさはどこを探してもない。そもそも大型連休の気配すら感じられない。気配を消して忍び寄ってきた忍者のように、気づくとゴールデンウィークはそこに佇んでいる。それを受けて立つ私も、なんの心の準備もできていない。4月に生じた変調から態勢を立て直せないまま5月に流れ込んで、いまだにペースが狂っている。体が重力の中心を失ってしまったかのようだ。だから通常の季節感が働かない。未来もなければ過去もなく、ただ現在のみに生きている毎日だ。
さて、その現在のみに生きる私がどのようにゴールデンウィークの初日を過ごしたかを書いてみよう。ゴールデンウィークらしからぬ1日だったかもしれないが比較的生産的な1日だった。朝はいつも通りに散歩した。青くかすみがかった空のもと明るい日差しに照らされて草木が生きいきと輝いていた。色とりどりの花々や緑の木々が、あふれるばかりの生命力を発散させていた。まるで二重、三重の混声合唱のように歌い上げている。春だ、春だ、春だ。その春の祭典のなかを、マスク姿の人々が強迫観念に取りつかれたかのように歩いたり(散歩)、走ったり(ジョギング)している。皆、この「緊急事態宣言」下、家にこもる日々の中で運動をえようと必死なのだ。まるでそこに自分たちの生活の存続がかかっているかのように。
散歩の後はリンゴジュースとトーストで簡単な朝食。8時ごろには終わり、しばらくのんびりと読書をして過ごした。村上春樹の『遠い太鼓』の再読だ。この本は、この人気作家がヨーロッパで暮らしていたころの記録で、一般的には旅行記とカテゴライズされるのだろう。そういえば、去年のゴールデンウィークも村上春樹を読んでいなかったっけ。正確には違ったかもしれないけれど、休みになるとなぜか小説をむさぼり読む傾向があるのは確かだ。普段は勉強に関係するものを読もうと努力しているのだが、休みになると、勉強関係への関心が失せて小説に舞い戻る。本当は、ちゃっちゃと仕事をして稼いで、あとは好きな小説を読んでいる生活が自分に一番あっているのかもしれない。
改めて読むと村上春樹の旅行記は一つのフィクションだ。異国の風物を正確に描写するという伝統的な旅行記のスタイルから離れ、彼の作り出した「妄想」の世界を読者に差し出す。「妄想」とは言い過ぎかもしれないが、彼自身の想念によって一つの世界を作り出しているのだ。空に浮かぶ空中楼閣のように。例えば、日本脱出後滞在したローマの章。ローマに関する描写はほとんどなく頭のなかを飛び回る蜂のジョルジュとカルロに関する考察が8割がた占める。なぜ蜂?なぜジョルジュとカルロ?と思う。しかし、その手法は当時の彼の精神状態を比喩的にうまくとらえている。結局、人生はフィクションなのだ。三木清のいうように。
9時を回ってから、リビングルームとトイレを掃除した。あいにく掃除機が故障しており、土日祝日は修理を受けつけていないようなので、掃除機購入以前と同様、箒で床をはいて雑巾がけをした。雑巾がけの途中でへばってきたので、切れていた洗濯石鹸を買いに出かけた。ついでに冬用のコートとジャンパーをクリーニングに預け、明日の朝のパンも買った。こう書くと随分よく働いた気がする。私にしては、だけれど。
ほかにもやるべき家事は残っていたけれど、いっぺんに全部するのはきついので翌日に回すことにして午後は映画鑑賞。さんざん迷った末、『戦場のピアニスト』を見ることにした。なぜそれを見ようと思ったのか分からない。2時間半もある長作で、しかも決して心楽しい映画ではないのに。ナチによるユダヤ人虐殺の過程。なぜあれだけ多くの人が明らかに悪意をもった民族浄化にいたる不条理な命令に従い続けたのか。したがったところで助けてもらえるわけではないのに。ネズミを溺れさせる実験を思い出す。ネズミを水に入れて、いつまで抵抗するかを見る実験だ。映画の中のユダヤ人たちはただ粛々とナチスによって計画された自分の死の行進に連なる。あのような形で殺されるなら、戦いながら死んだ方がましかもしれない。
まあでもしんどい映画なので、休み休み見た。途中で風呂掃除に必要なたわしを買いに再びスーパーに行ったりもしながら。実は今まで風呂掃除って風呂桶の中しかしていなかったのだ。ところが最近ツイッターで「研究者の妻」という人が、風呂掃除といえば風呂桶の掃除を指すと思っていた夫に驚愕しているのを見て、私の感覚はおかしいらしいぞと気づいた。そのおかげで風呂場の掃除の必要性を認識して、夕食前に風呂場の掃除を遂行し、ピカピカに磨き上げた。もちろん洗い場も掃除した。
そんなこんなで、2020年ゴールデンウィークの初日はまずまずの一日だった。
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