2020年5月5日火曜日

神楽坂の思い出


毎日歩く道をなぞったら、固有の形が浮かび上がる。境界線に定められた閉じた図形が。それは私が地上に刻んだ刻印だ。上空から観察している高次生命体がいたら、その図柄の隠された意味を読み取るかもしれない。ナスカの地上絵やイギリスのストーンヘンジに匹敵するものとして。あるいは開拓時代のアメリカ政府が、その土地を私にくれるかもしれない。私の歩いた跡を境界線とする土地を。

神楽坂に住んでいた頃は毎日同じ道をたどり続けた。線の上に線を何重にも重ねることによって自らの足跡を深く刻みつけるかのように。平日の朝は、家を出てすぐの突き当りを早稲田通りとは反対方向に折れて、住宅街のなかの細い道を抜け、新潮社社屋の脇を通って区営駐輪所に至る。早稲田通りを通らないのは私の部屋から駅までの上り坂が長くてきついからだ。軽快な愛車GIANTであっても。自転車を飛び降り、急いで駅の改札に向かう。南口改札だ。終業後は、べるさっさで電車に飛び乗り(こんな表現もう使わないでしょうか)、自転車を回収して、駐輪所を出ると駅に背を向けて突き当たるまで進む。右折して旺文社社屋を回り込み牛込北町交差点を超えてまっすぐ進む。JTB Publishingの横を通り坂を下ってお堀端に出る。適当な場所に自転車を停めて校舎に駆け込む。目撃されないように気を配りながら。理科大の神楽坂キャンパスは、それをキャンパスと呼んでいいのかはともかくとして、神楽坂の入口からお堀に沿って東西に点々と延びている。化学科の授業や実験が行われる10号館・11号館は飯田橋駅からもっとも遠い位置にある離れ小島だ。したがって私も図書館に用がない限り1号館の方に足を向けることはない。9時に授業が終わると、さっさと自転車に飛び乗り、神楽坂駅の方向に上り坂を一生懸命上る。「いち、にぃ、さん、しぃ…」と自分に号令をかけながら。しかし、一旦上り切ればあとは下り坂なので楽なものだ。特に家近くの急坂を降りるのがなんとも痛快だ。

いうまでもないことだが、神楽坂はとにかく坂が多い。勢いほとんどの人が電動自転車に乗る。特に子連れの人は電動自転車なしでは生きていけない。命綱のようなものだ。町を歩いていると、子供用の補助いすをつけた背の低い電動自転車がずらりと並んでいる。あれほど多くの電動自転車を見ることは二度とないだろう。

週末は平日とは違った道を取る。1号館の図書館に行くためだ。先ほど書いたように授業のある10・11号館と図書館のある1号館は同じ飯田橋でも場所が離れているため、家からのアプローチも変えなければいけない。牛込北町交差点と神楽坂上交差点の間にある、大江戸線牛込神楽坂駅のA2出口をふもとに抱くS字型の坂を上り、途中で左に折れて八宮八幡宮に出る。図書館開館の11時に到着して閉館の19時前まで一日こもる。図書館を出ると、同じ道を家に帰るのだが、この時新潮社ハウスを通る。新潮社が作家を泊めたり、インタビューをしたりする家で、ここに泊まって短編集(『東京奇譚』だったかな?)を仕上げたと村上春樹がどこかで語っていたのを読んだことがある。川上未映子の公式サイトの写真もここで撮ったのかもしれない。日によって明かりがついていることもあれば、ついていないこともある。あいにく一度も作家らしき人に会ったことはない。

このように私が神楽坂に住んでいた頃の毎日は仕事→学校→家の往復で、華やかな神楽坂の表通りに出ることはついぞなかった。私の知る神楽坂は、新潮社社屋であり、坂だらけの狭い裏道であり、キッチンコートの1階のサンジェルマンだ。確かに今はAkomeyaとなったお洒落ショップLa Kaguには数回行ったし、赤城神社も2,3回お参りしたが、それ以外に神楽坂らしいところはほとんど行っていない。もったいないような気もするし、そんなものかなという気もする。そうそう、住んでいた部屋のすぐ近くに夏目漱石が晩年住んでいたということで記念館がたっていた。かの文豪がこの道を歩いたのかと思うと、何かあやかれそうな気がして、ほのかに嬉しかった。昨今の町の喧騒からは到底往時の町並みは想像できなかったが。


この夏目漱石記念館、彼の住んでいた家を再現していて、なかなかよいですよ。周りにバルコニーが張り巡らされ、庭には棕櫚の木が植わっているという、洒落た洋館で、気難しそうな文豪がなかなか洒落た趣味の持ち主だったことが伺われます。


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