2020年6月11日木曜日

緊急事態宣言解除後に感じる、何者でもない自由

 
 緊急事態宣言が解除されて地域の図書館が再開したので週末に行ってきた。図書館に行くというだけでうきうきした。もともと図書館という場所が好きなのだ。同じように図書館の再開を待ちわびていた多くの人が来館していた。本を借りてすぐ帰る人もいたけれど、ベンチで本を読みふけっている人も机で勉強している人もいた。館のなかを安堵感が流れていた。

 通路をぬって本を探しながら、自分がほっとしているのが分かった。それはなつかしい場所に帰ってきたという気分であり、周囲の目から解放される安心感だった。緊急事態宣言が解除されたからとは関係なく、小さい頃から図書館は私にとってそのような場所だったのだ。図書館で私は何者でもない自分でいられる。誰からも見られないでいられるし、誰からも何も問われないでいられる。そこでは私が何を考えているか、何をしているか、年収はいくらか、人にどれだけ好かれているか、といったことは問われない。

 図書館は〈隠れ家〉なのだ。自分の出自や貢献と関係なくその場にいることが許され、自分を外に出さなくていい。しかも無料だ。その感じは学校で授業を受けている時と似ている。発言しなくてよく、他人の視線を集めず、完全に受動的でいられるという点で。教室で視線を集めるのは教壇に立つ者だけだ。受講者は視線の外に身をおけることによって、内面を覗き見られることから守られる。他者の視線から自由でいられる教室空間は自由に考える余白を与えてくれる。これは決定的に重要だ。絶えず自分の考えを問われる場所では自由に考えることはできない。アウトプットを期待されずに放っておかれることが自由に思考するための最低条件なのだ。

 授業における教室空間はそのまま私にとっての図書館だ。図書館に一歩足を踏み入れると外界のあらゆる雑音が遮断される。自分の体を取り巻く空気が変容し、時間の流れが遅くなる。図書館は社会から遮断された場所なのだ。それが図書館が〈隠れ家〉であるということの意味だ。

 この日、私には借りたい本があった。図書館が再開する前から読みたいと思っていた本だ。図書館から帰ったら、残された午後の時間はその本を読もうと決めていた。何を大げさな、と思うかもしれないが、長い間本を読む集中力を持てなかったのだ。特にツイッターを見るようになってからはひどく、本を読もうとページを繰る間にツイッターが気になってiPadを見てしまうし、一旦iPadに注意を取られると機体を下に置けなくなって延々と見続けていた。ほとんどアディクションだ。嵌らないようにしようと意識していたにも関わらず、気がついたら自分の時間を乗っ取られていたわけだ。

 図書館はツイッター的な視線からも私を解放してくれた。ツイッターは何者でもないことが許されない空間だ。絶えずフォロワー数、いいねやRTという数に意識を支配される。たとえ気にしないようにしていても。そして、発言をしなければ存在が消される。そのため、気がつくと誘引されるように何かをつぶやいている。その影響力は強力だ。

 だから、何者でなくてもいられる図書館という空間は私にとって救いだった。結果的に私はツイッターを見ることをやめたのだけれど、その結果、本を読む時間を持てるようになったし、自分が面白いと思うコンテンツに浸れるし、QOLは上がった。

 図書館から帰宅後、借りてきた本を読みながら、単なる一読者/消費者として本を読んでいればいいということが実は一番気楽で楽しいことなのだという事実をかみしめた。そこから何かを学ぼうとか、人に認められるために役立てようと思わないで、自分の好き勝手に本を読めることが大事なのだ。それがいつの間にか何者かにならないといけないという強迫観念に取りつかれ、本を読むことにさえ打算が働き、自由に本を読み、考えることができなくなっていた。

 そういう意味でいうと、今自分の生き方の方向転換を迫られている。


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