2020年8月31日月曜日

偶然の上に立つ緊張感

 人がどのような家族に生まれ落ちるか、どのような教育を受け、どのような人と出会い、どのような仕事につくか、はすべて偶然だ。そこに努力の要素がないとは言わないが、その努力も偶然の範囲内のことだ。したがって、人が現在持っている地位や収入や資産は偶然の産物であって、そこには何の正当性もない。身分制のある社会で、貴族が多くの土地を持ち華やかな生活をできることが偶然に過ぎず何の正当性もないように、現在の日本社会で一流企業に入って多くの収入と安定した生活を得られることにも正当性はない。

現在の社会で、人がどこに生まれ、どのような教育を受け、どのような仕事に就くかが偶然の結果であったとしても、その偶然の結果として得られる処遇は大きく異なる。人は持てるものと持たざるものに振り分けられ、上に立つものと下にはいつくばるものが出てくる。そして、なぜあの人は私より持っているのだろうと互いに思う。しかし、ある人が恵まれた地位にあることに正当性がない以上、そこには常に緊張感がある。つまり、人は持つ者になった時、自分が他人より持っていることを正当化する根拠をなにも持たないまま、他人の視線にさらされ続けなければならない。人が同じ階層の人々の輪の中でつきあいたがるのは、そのような他者の視線に耐えられないからだとも言える。

いずれにせよ、人は偶然の結果として持てるものか持たざるものに振り分けられてしまう以上、持ってしまった人間はどのような正当化の理由がなくても毎日自分の持っているものを背負って社会のなかに出て行かなければならない。それは耐えざる緊張感のなかに身を置くことだ。

大企業で働いていた若い頃、なぜ自分が経験の知識もないのに下請けの人たちより多くの給料をもらい、彼らの上に立っているのかが理解できなかった。また、そのころ周りにいた女友達の多くよりよい給料をもらい、彼女たちが生活に苦労しているときに自分はなにも苦労しないでいられるのかが理解できなかった。彼女たちの生活の苦労を見ながら自分が金銭的に恵まれていることは苦しくもあった。しかし、今になってはっきり分かるのは、それは偶然の結果でしかないということ、そして、たとえ偶然の結果であったとしても自分の与えられた領分の中で生きていくしかできないから、それに耐えるしかない、ということだ。

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東浩紀がいま考えていること・7──喧騒としての哲学、そして政治の失敗としての博愛 @hazuma #ゲンロン240519

先日見たシラスの番組で色々考えさせられたので、感想をこちらに転記します。 「この時代をどう生きるか」という悩ましい問題について多くのヒントが示された5時間だった。