仕事をする自分について考える。仕事が私を作っている。私がある物体に力を加えるとその物体も私に力を加えるように、私が仕事をするとき、仕事も私に働きかける。そのようにして仕事は私の身体を組み替える。物理界における作用・反作用の法則はここでも生きている。
人はその仕事によって規定される。学者は学者が考えるように考えて振る舞い、警官は警官が考えるように考えて振る舞う。そして、道路工事のおじさんは道路工事のおじさんが考えるように考えて振る舞う。面白いほどに人はその職業の枠組みに従った思考を持つ。社会に出たての何者でもない人間が仕事を始めるとき、彼・彼女はその仕事の洗礼を受ける。仕事を始めるということは一つの道を選ぶことだ。
私たちはどこかで何者でもない自由、つまり、何者にもなれる自由、を手放して一つの道を選ぶ。それは社会で生きていくために必要とされることであり、決して完全に自由な選択ではない。生まれることが自由な選択ではなかったのと同じように。
誰もその節理に逆らうことはできない。どこかで一つの仕事を選び、その仕事でやっていくと覚悟を決めなければいけない。覚悟を決めたら、その仕事によって作り変えられることを受けいれなくてはいけない。そうしない者は偽物だ。
一つの道を選択する時、私たちは「何者にでもなれる」という幻想が嘘であったことを知る。私たちは何者かにならなくてはいけない。たとえ、それが自分の望んだものでなかったとしても。そして、何者かになる以上、その役割を正々堂々と果たさなくてはいけない。もちろん最初から何者かである人などいないのだから、そこには変化と成長が必要とされる。社会に出たばかりの新人で、そのままの自分で通用する人などいない。長い訓練の道のりが待っている。
しかし、作り変えられることは楽しいことではない。強情な私たちは自分の自然状態を頑なに守ろうとする。だから、若い時の訓練が大事なのだ。自然に好き勝手に繁茂する自我を押しつぶし砕いて作り変えるには、まだ自我の定まらない柔軟性を必要とするから。塑性を必要とするから。
今私は作り変えられようとしている。重い挽き石に押しつぶされ、ごりごりと挽かれ、粉々にされている。考えを問い詰められ、書く文章を細かく直され、思考の欠点を微に入り細にうがち突っつかれ明るみに出される。徹底的に自然状態の私を叩き出そうというように。私の身体は悲鳴を上げる。仕事を見ると吐き気がこみあげてくる。仕事が私に要求するあらゆる思考を自分の体内システムから追い出そうとするかのように。
私の身体はなんと強情なのかと嘆息せざるを得ない。なぜここまで変化を拒むのか。しかし、どんなに抵抗されても私はこの身体を蹂躙させるだろう。なぜなら私はこの仕事を身に着けようと決心しているから。
今日は休暇を取った。今週末は仕事のことを考えず身体を休ませるつもりだ。
火曜日にはまた新しい戦いが始まる。
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