この文章は「今川焼の何がそんなに特別なのか」という命題に応えようとする試みだ。「なぜ今川焼でなくてはいけないのか」、「今川焼でなくてはならない理由はどこにあるのか」と言い換えてもいい。今川焼には今川焼でなくてはならない理由がある。コンビニで買ったショートケーキではだめなのだ。
生きていくためにはささやかな楽しみがあった方がいい。大きなことである必要はない。というより、大きくない方がいい。心理的なハードルが低く手軽にできるけれど特別な感じがするということが大事だ。そういったものがあると、仕事で嫌なことがあったとき、人間関係がうまくいかないとき、あるいは少し疲れたときに、少しは心が前向きになれる。生きていくための心の安全弁のようなものかもしれない。
最近の私の楽しみは今川焼だ。連休の間は毎日食べた。必ず今川焼屋さんで焼いたのを買ってきてすぐに食べる。普段は図書館に行った帰りについでに買っていたのだけれど、この連休はわざわざ今川焼を買うために図書館まで行った。
今川焼のいいところはその場でお店の人が焼いて手渡ししてくれることだ。たとえ「あんください」「100円です」というだけのやり取りであったとしても、人の手を介する交流がそこにある。それが特別なのだ。物理的にも象徴的にも。のっぺりとした一日の中で、今川焼を買ったことが、一つの意味ある行為として心のカレンダーに刻み込まれる。つまり、今川焼を食べることの中には、買いに行くことも楽しみとして含まれているのだ。だから絶対に冷凍のものではだめなのだ。
今川焼を食べる行為も一つの儀式のように感じられる。食べるのは必ず一日一つ迄だ。ボリュームがあるのでそもそも二つも食べられないが。買ってすぐ家に帰って、ほうじ茶を入れて食べる。食べ方は決まってない。割ってもいいし、そのままかぶりついてもいい。今川焼のよさは、かぶりついた時の皮の歯ごたえにある。皮の外側は滑らかだが弾力があって跳ね返ってくる。皮の外側と内側に質感の違いが皮に物質感を与えている。その物質感を確認するために食べていると言ってもいいかもしれない。
その今川焼屋さんでは、あんこ味、クリーム味とチーズ味がある。どの味でもいいが、やはりオーソドックスなあんこが一番だ。触感と甘味のバランスが今川焼という形式にもっとも適合していると感じる。クリームは柔らかすぎるし甘すぎる。
なぜ今川焼でなくてはいけないのか。結局、今川焼は腹を満たす食べ物以上の何かなのだ。今川焼を買いに行くことからその経験は始まっている。それはコンビニに並ぶデザートでは代替できない。今川焼であればたとえ何も食べる気にならない時でも食べられる気がする。
商店街でもなんでもない住宅街の一角にある今川焼屋さん。いつまでもつぶれないで営業し続けてほしい。あなたの存在が私を生かしている。
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