4月22日から9月9日までの三ヶ月半、人格OverDriveというサイトで10回に渡る連載をした。
連載のタイトルは「孤独の座標」。現代社会で一人で生きることについて考えるエッセイだ。従来の家族モデルが崩れた現在の生き方を考えたかった。そのために自分を実例として用いた。
1)どこまで自分を見せるのか
社会の見え方は、個人によって異なり、その人の経験、階層(=社会文化的背景)に大きく影響される。読者の階層や背景は私とは異なるので、私がどこから来ているのかが読者にわかるように、できる限り自分の背景を開示することに努めた。文章の内容と文脈を同時に読み取れるように書こうとした。そうすることが最も公平な書き方だと思ったからだ。これは、出版物の読者だった若い私が、文章には作者の背景があることを知らずに、登場人物に自己同一化して文章を読み、登場人物のようになろうとしてなれない自分に落ち込んだ経験が幾度となくあったからだ。
しかし、自分を見せることは怖い。特に今回は自分の内面を掘り下げて書いたので、自分の体の一部を切り刻んで知らない人々に分け与えているような気持ちになった。暗闇に向かって書いていたわけだが、暗闇に魂を吸い取られているような感じがした。今回は10回という短さだったため、自分の全てを出し尽くしたわけではないが、もし自分を全て出し尽くしてしまったら、しばらく立ち直れなかったかもしれない。
文章上での自己開示は、実人生で知り合いに自分を開示するのとは異質な出来事だ。私も連載で書いたようなことを同僚や友人に話したりはしない。だからだろうか、連載を読んだ元同僚から驚かれ、心配されもした。私が悩みを抱えていると思われたのだ。正直、心外だった。文章上の自分と実人生の自分とは、私の中では切り分けられているからだ。
2)読者との双方向性
ウェブ上で書くことは印刷媒体で書くこととは異なる特異な経験だ。
今回はツイッターが大きな役割を果たした。人格OverDriveのサイトに書き、ツイッターで告知していたのだが、ツイッターがなければ全く異なった経験になっただろうと思う。ツイッターがなければどうやって宣伝すればいいのだろうと何度となく考えた。
最初の頃は宣伝にも力を入れていた。自分は無名だし、内容もキャッチーではないので、宣伝しなければ誰にも読んでもらえないと思ったからだ。思いつく知り合いにはできる限り声をかけたし(疎遠だった友人とキャッチアップする機会にはなった(笑))、金曜日に公開したあと、土曜日は一日ツイッターに張り付いてた。ツイートする努力もしたし、フォロワーを増やす努力もした。これは結構疲れる活動なので、数回でやめてしまったが。しかし、無名である限り、宣伝する責任は自分にあるので仕方ないことだと思う。何かホットな話題でもない限り、読者は自然には湧いてこない。
ウェブ媒体に限らず印刷媒体であっても、作者は自分の作品を読んでもらうために、実作と宣伝の両方を活動をしなければならないものだと思う。アメリカの出版業界や作者をフォローしていてそれは強く感じさせられたが、日本の状況を見ても変わらなさそうだ。アメリカの場合、出版後にいわゆるブックツアーなるものがあって、作者は各地の書店を回ってインタビューに答えたり、リーディングをする。その間は全く書けなくなるらしい。本を出版した知り合いを間近で見ていたので、宣伝活動がいかに大きな意味を持つのかは知っていた。自分のそれは遥かに小さな規模ではあったが、それがいかに疲れるものであり、書くことを妨げるものであるかは実感した。
ウェブ媒体の最も大きな特徴は読者との距離、あるいは双方向性かもしれない。それもツイッターあってこそではある。ツイッターは、作者から読者に向かって「読んで!」と語りかけることを可能とすると同時に読者の反応も可能にする。140字という短さゆえに深い感想を言わないですむ(読解力を求められない)ことも反応をしやすくする。その意味では、「面白かったです!」ですむ作品の方が反応しやすいかもしれない。私のようなしちめんどくさい文章に反応するのは難しいだろうことは想像がつく。
反応の有無は書く上でとても大きな影響があった。
特に後半、反応が少なくなってから、自己疑念がどんどん膨れ上がり、書くのが難しくなった。最後の3回は、何を書いても間違っているように思え、書いては破棄するということを繰り返した。反応がないということは(必ずしも)誰も読んでいないということではないし、(必ずしも)私の書いたものが悪いものだということではない。しかし、疑念の穴に落ち込むと、そうとしか感じられなくなってくる。その結果として、書く内容が変化した。最初あった構想は完全に捨ててしまったし、抽象的な内容、思考を必要とする内容を書くのが心理的に難しくなった。端的に書く自信を失った。それでも書き続けるためには、自分をどんどん掘り下げていって、今自分が感じていることを書くしかなかった。
文体にも影響があった。後半に行くにつれて構成的な文章が書けなくなった。初期はまだ文学的な影響を受けた構成的な文章で実験することができたが、後半にいくに従って、そういう余裕がなくなっていった。嘘くさく感じたのかもしれない。それは、そういう文章を書く自分を維持できなくなったということでもある。
作家というものが読者の反応に影響されやすい存在であることは知っていた。その点では私も他の人と変わらない。ライター向けのウェブ記事を読んでいると、同じような悩みが列記されている。誰かにOKと言ってもらって安心させてほしいと思ってしまうこと。承認を求めてツイッターを見てしまうこと。ツイッター上での他人に対する評価を見て自己評価が下がること。今回の連載の経験は、自分がいかに他人の反応に左右されるかを教えてくれた。また、いかに不安に支配されやすいかも。ネット上で連載したことで、ネット依存が強化されたのではないかとさえ思う。
次やりたいことはあるけれど、そのためにも自分の不安と向き合うことが今の課題だ。
孤独の座標 https://ezdog.press/post-30797.html
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