11月7日(月)
第9〜12章
第9章
ソンジャは寝床の中でハンスのことを考えている。家の中で寝床だけが一人になれる場所なのだろう。彼女の回想を通じて、彼女がいかに父親に愛されてきたかがわかる。たとえ貧しくても誇りを持って行動できるように彼女を支える父の愛について語る以下の文章は美しい。
「ソンジャは、父が母と自分に注いでくれる愛情を誇りに思った。裕福な家庭の子供が、父親からふんだんに与えられる米や金の指輪を誇りに思うように。」
しかし、「それでもやはり、ハンスが忘れられなかった。」と心が揺れる。ソンジャは決して虚栄心に満ちた人間ではないけれど、そういう彼女でも広い世界を見たハンスの力に惹きつけられるのだ。
この章で、イサクはソンジャに結婚の意思を伝える。二人は一緒に散歩に出かける。家の中ではプライベートな話ができないから。イサクとソンジャの散歩はあらゆる意味でハンスとサンジャの散歩と対照的だ。イサクは、ソンジャの後から着いて歩く。二人は日本人の食堂に入るが、イサクは日本人に適応することで認められ、その点でもソンジャを日本人による暴行からソンジャを助けたハンスと対照的だ。
第10章
本章でソンジャとイサクは結婚する。しかし、この章は幸せな章ではない。
イサクはソンジャとヤンジンを牧師のもとに連れていくが、牧師はソンジャを問い詰め、まるでソンジャを苛めているように感じられる。それはイサクを思う心からだが、また、不義の子を宿した女性に対する社会のまなざしをも反映しているように感じる。また、牧師がソンジャに罪の許しを求めることを迫る様子に、クリスチャンの告解はむごいことに感じると言っていた知人の言葉を思い出す。
この章でも、牧師を訪れる三人の服装、民族服の女性と洒落た洋服のイサク、を通じて3人の階級差を感じる。また、牧師のくたびれたスーツはやもめ暮らしの彼の生活を浮き彫りにする。なぜかカラーだけは糊がきいているというのは、彼の聖職者としての自覚を表しているのだろうか。
何より娘に祝福された結婚式をしてあげることができない母ヤンジンが哀れだ。しかし、考えてみれば、様々な事情から不本意な形で娘を送り出さなければいけない親は、ヤンジンに限ったことではないだろう。結婚は幸せだとは限らないのだ。
第11章
「下宿人はようやく根負けし、仕事着を洗濯のために引き渡した。染みついた臭いがひどくなって、当人たちにも耐え難くなったのだ。」と始まる本章は、結婚に向かう緊張感と日本に移住する緊張感の間の短い安らぎの章だ。嵐の前の晴れ間という感じ。ソンジャと使用人の姉妹たちとの無邪気な会話が心を和ませてくれる。ソンジャにとっては娘でいられる最後の時間でもある。しかし、章後半でソンジャは日本に向けて旅立つ。娘のために荷造りをしては、それをほどいてまた詰め直すヤンジンの姿に、娘を失う母の憤りが現れている。別れ際まで何か娘にアドバイスを与えようと話し続ける様も、母親ってそうだよなと思う。
第12章
1933年4月大阪。一転して舞台は日本。
大阪駅でイサクの兄ヨサプが弟夫婦を待つ場面から本章は始まる。
ヨサプは工場の職工長だが「大阪のぱっとしない労働者の普段着風の格好」をしている。故郷では立派な仕立ての洋服を着る金持の家柄なのに、ここではそういう服装をしない。日本人の工場長よりよい服装をするわけにはいかないからだ。
駅で待つ彼が久しぶりに弟に会えることに心弾ませながら、周囲の日本人の視線に緊張していることがわかる。見た目では日本人と区別がつかないが、一旦口を開くと朝鮮人であることが分かり、人々の態度が変わるからだ。「どうあろうとヨセプは朝鮮人であり、人柄がどれほど魅力的でも、悲しいことに、小ずるくて油断のならない民族の一員としか見られない。」
ヨセプとイサクが再会し、3人がヨセプの住む猪飼野に移動する道中、ずっと3人の浴びる視線を思って緊張してしまう。ソンジャが民族服で一目で朝鮮人だと分かるから余計に。
また、猪飼野の町も衝撃的だ。作者は、その臭い(獣臭が強く漂っている)、バラック建ての家屋、ぼろをまとう子どもたち、道で排便する子どもを描く。また、ヨセプは、近所の人たちとも喋るな、と言う。物を持っていると思われ、以前家じゅうの貴重品を盗まれたことがあったのだ。作者は五感に訴える細かいディテールを積み上げることによって猪飼野に住むとはどういうことかを私たちに知らせる。なぜ、彼らがそんな生活をしなければいけないのか、という疑問を私たちの心に起こす。
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