今日は午前、午後と二回も図書館に行ってしまった。
昨日も一昨日も行っている。通いすぎと思われていそうで恥ずかしい。
しかもいつもマックス30冊借りているし。変な人だと思われているに違いない。
だからいつも、できるだけカウンターで借りないようにしている。
ラカン(の解説書)を繰り返し読んで、少し理解ができた気がする。
人が最初に獲得するイメージが自己の鏡像であり、イメージは実体ではないというラカンの主要な主張は、パーソナルトレーニングで学んだ前庭覚の話とつながっているような気がする。
*前庭覚とは
前庭(平衡)感覚とは、直進運動や回転運動時の速度
変化に対する感覚であり、体性感覚や視覚を除いた状
態でも速度変化を感じることができる感覚である。受
容器は、迷路(内耳)の三半規管と前庭器(耳石器)であ
る(図2)1)。(後藤淳、関西理学10:5-14,2010)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jkpt/10/0/10_0_5/_pdf
前庭覚は速度変化に対する感覚ということだが、この話を聞いたときに考えたのは、筋トレやダンスなどでは、正しい体勢を取れているか鏡でチェックしながらトレーニングをするのだが、そのとき私は視角に映るイメージに基づいて自分の体を認識している。それは、体内の感覚ではない。鏡を見ないで正しい体勢を取れるようになるためには、体に感覚を覚えさせなくてはいけない。この二つはまったく別の働きだ。そして、視覚的なイメージと体内感覚を結びつけるのは意外と難しい。同様に、自分の体を一つのまとまりとして感じることも難しい。
ラカンはさらに人間は象徴界を持つことを主張していて、赤ん坊は去勢されて象徴界に入るとしている。具体的には、子どもは母親がペニスを持たないと認識してショックを受け、母親のペニスになりたいと願う。しかし、母親が求めているのは父親のペニスだと気づき、父親と同一化しつつ、象徴的なペニスを持ちたいと願う。しかし、ペニスそのものであることはかなわず、父親そのもになることもできない。ならば、父親のペニスの代理物を所有することで、母親=世界と自分との間に生まれた絶望的なギャップを埋めることに賭ける。ここで「象徴」が必要とされる。つまり、ペニスの象徴(=ファルス)を作り出すことで母親=世界のペニスの欠損を補おうとする。ここで、子どもは象徴を獲得して存在そのものの所有をあきらめる。(斉藤環『生き延びるためのラカン』筑摩書房)
この理解に基づいて、先日読んだ『自殺依存』や『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』について考えると、『さびレズ』は主人公が母親との一体感を捨てることができていない(「私は大きくなってからも母親にベタベタしていた」「お母さんに抱っこされたい」等)と言える。『自殺依存』に関しては、そのような母親との一体感を求める記載はないけれど、親に甘えたくても甘えることができない欲望が他人への「聞いてほしい」「受け入れてほしい」という態度になって現れていることが書かれている。ちなみに、どちらも女性だ。(女性の場合は、去勢→象徴界の受け入れプロセスが男性より複雑だとラカンは言っている。)ところで、ラカンにしたがって考えると、自分が完全に母親と一体化した(理想的な)状態を失って(去勢されて)、象徴という代理を得ることで世界との溝を埋めることが人間社会に参加する(成長する)ことであるならば、自分が完全に受け入れられているという状態を失うのは当然のプロセスということになる。『自殺依存』のなかの精神科医による解説で、「自分が自分であっても大丈夫」という自己肯定感が必要であるということが書かれているけれど、またそれはカウンセリングという場(現実世界)では必要なことだと思うけれど、理論的に考えると、象徴を獲得するということは「そのままの自分」を失い、代わりには何かを差し出すことなのではないか。そして、精神病になると言うことは、そこで象徴界に入る際に何か障害があったということではないか。
太宰治の病理誌も読み始めた。それを読んで何になるのか分からないけれど、興味を感じてしまう。他人の病気にひかれる私って一体・・・と思いつつ。また、これがどのように私の創作に役立つのかもまったく分からないけれど。
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