私は普段、朝6時前に家を出て仕事に向かう。つい最近までその時間の町はまだ暗く、街灯の明かりに照らされて駅へと向かわなければならなかったが、まだ寝静まっている家も多い中、必ず明かりの灯っている団地の一室があった。窓の大きさと位置からしてダイニングキッチンの明かりだと思うのだが、角を曲がってその光が目に入ると、「いってらっしゃい」と言われているようで心温まった。その家の前を休日に通ると、たくさんの洗濯物が長い竿に規則正しくずらりと干されている。今日のように何枚もの布団が干されていることもある。どのような人々がその部屋に住んでいるのかは知らないけれど、その規則正しい生活の形が私を安心させてくれる。
2020年4月4日土曜日
心が疲れたときに再生するための習慣の力
私は普段、朝6時前に家を出て仕事に向かう。つい最近までその時間の町はまだ暗く、街灯の明かりに照らされて駅へと向かわなければならなかったが、まだ寝静まっている家も多い中、必ず明かりの灯っている団地の一室があった。窓の大きさと位置からしてダイニングキッチンの明かりだと思うのだが、角を曲がってその光が目に入ると、「いってらっしゃい」と言われているようで心温まった。その家の前を休日に通ると、たくさんの洗濯物が長い竿に規則正しくずらりと干されている。今日のように何枚もの布団が干されていることもある。どのような人々がその部屋に住んでいるのかは知らないけれど、その規則正しい生活の形が私を安心させてくれる。
2020年3月19日木曜日
「シリコーン」を通じて「化学」について考える
最近、「シリコーン」について勉強している。きっかけは、仕事でシリコーンに関わる案件が何件かあって、スーパーバイザーに「シリコーンの合成方法、知っていますか?知らなかったら自分で勉強しておいてね」と言われたことだった。
ちなみに「シリコーン」とは、ケイ素と酸素のシロキサン結合(Si-O)の主鎖に有機基が結びついたポリマーのことだ。ポリマーというと、炭素が何個も鎖のように連なっている長い化合物を指すことが多いのだけれど、炭素の代わりに-Si-O-が連なった鎖というわけだ。炭素ベースのポリマーと言えばプラスチックで、プラスチックは今や身のまわりのあらゆるところで使われているのは周知のとおりだが、シリコーンは、炭素ベースのポリマーほどではないにせよ、シャンプーやリンス、化粧品などの日用品にも使われているし(山谷正明[監修]、信越化学工業[編著]、『シリコンとシリコーンの化学』)、コンタクトレンズや乳房インプラントなどの特殊な用途にも使われており、私たちの生活に意外と浸透している。
2020年3月15日日曜日
[メモ]〈概論〉とは(芦田宏直2020.03.15ツイート)
みんな真っ先に問うことを棚に上げるから、授業が盛り上がらない。「心理学って言ったって色々あるんだよ」「哲学って言ったって色々あるんだよ」「キリスト教って言ったって色々あるんだよ」と真面目な先生ほど学生に向かってさとすが、しかし、(続く)
これは、学生にとってはなんだよそれということになる。一言で言うために、たくさんの本をあんたたちは読んできたんでしょと。ご託を並べるのなら、時間かければ誰でもできる。しかし、その〈一言〉が言えるために先生は偉いのだから。
ページ数を、あるいはコマシラバスの字数を稼ぐとすれば、「色々あるんだよ」というところを積み上げればなんとかなるが、「心理学とは何か」に「色々あるんだよ」なしで取り組むとなると書き手の根性が見えてくる。様々な通説や有名な研究者の引用ばかりでは答えられないことが起こってくるからだ。
心理学を初めて学ぶ学生たちにとって、一番有意義なことは、まだ心理学が隠しているもの、隠さないと生存できないものを明らかにすることでしかない。それがどんな分野の学問にとっても、入門の意義なのだ。つまり出門でないような入門はないのです。
この〈入門〉の時間性を〈歴史〉というのです。
かといって、中西先生は日本一立派なコマシラバスを今さら書き直すわけにはいかないだろうから、すべての種別的な心理学を終えたあとで、それらを論理的に貫いている基盤をじっくり語るコマを二コマくらい入れるべきだと思う。違っている各心理学が実は同じものだったと。
複雑そうに見えたものが、実はとても単純な原理で動いていたと。それが見えない講義は、知的弱者(学生)に対する単なる脅し(あるいは優越的自慢)でしかない。、
以上、中西先生のコマシラバスへの真摯な取り組みに乾杯!
ちなみに、関連個所を今回のシラバス論(晶文社)から抜き出してみる(77頁)。
昔の大学では、〈概論〉を担当する教員はその学部・学科を研究者として代表する教員だった。その理由は若手教員では専門的過ぎて概論を論じるだけの能力がなかったからである。〈概論〉科目は専門を脱する力、専門を大所高所から論じる力がないと担えない。
そして〈専門〉を脱するには専門の頂点(End)に立った研究者以外には無理なことだ。頂点(End)からしか、すそ野の広がりと入り口(入門)は見えないから。
ヘーゲルもまた「ミネルヴァのふくろうはたそがれがやってくると飛びはじめる」(『法の哲学』中公クラシックス、2001年)と言ったし、
ドゥルーズもまたそれとは別の意味で「『哲学とは何か』という問いを立てることができるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいておそらくほかにあるまい」(『哲学とは何か』河出書房新社、1997年)と言う。
ヘーゲルにとっては時間の真理は時間の否定(時間の〈終わり〉)だった。ドゥルーズの「…とは何か」という問いはヘーゲルと違って「具体的なもの」について語ることと関わっているが、それもまた専門性がものを見えなくするからだ。(『シラバス論』77頁)
これは、学生にとってはなんだよそれということになる。一言で言うために、たくさんの本をあんたたちは読んできたんでしょと。ご託を並べるのなら、時間かければ誰でもできる。しかし、その〈一言〉が言えるために先生は偉いのだから。
ページ数を、あるいはコマシラバスの字数を稼ぐとすれば、「色々あるんだよ」というところを積み上げればなんとかなるが、「心理学とは何か」に「色々あるんだよ」なしで取り組むとなると書き手の根性が見えてくる。様々な通説や有名な研究者の引用ばかりでは答えられないことが起こってくるからだ。
心理学を初めて学ぶ学生たちにとって、一番有意義なことは、まだ心理学が隠しているもの、隠さないと生存できないものを明らかにすることでしかない。それがどんな分野の学問にとっても、入門の意義なのだ。つまり出門でないような入門はないのです。
この〈入門〉の時間性を〈歴史〉というのです。
かといって、中西先生は日本一立派なコマシラバスを今さら書き直すわけにはいかないだろうから、すべての種別的な心理学を終えたあとで、それらを論理的に貫いている基盤をじっくり語るコマを二コマくらい入れるべきだと思う。違っている各心理学が実は同じものだったと。
複雑そうに見えたものが、実はとても単純な原理で動いていたと。それが見えない講義は、知的弱者(学生)に対する単なる脅し(あるいは優越的自慢)でしかない。、
以上、中西先生のコマシラバスへの真摯な取り組みに乾杯!
ちなみに、関連個所を今回のシラバス論(晶文社)から抜き出してみる(77頁)。
昔の大学では、〈概論〉を担当する教員はその学部・学科を研究者として代表する教員だった。その理由は若手教員では専門的過ぎて概論を論じるだけの能力がなかったからである。〈概論〉科目は専門を脱する力、専門を大所高所から論じる力がないと担えない。
そして〈専門〉を脱するには専門の頂点(End)に立った研究者以外には無理なことだ。頂点(End)からしか、すそ野の広がりと入り口(入門)は見えないから。
ヘーゲルもまた「ミネルヴァのふくろうはたそがれがやってくると飛びはじめる」(『法の哲学』中公クラシックス、2001年)と言ったし、
ドゥルーズもまたそれとは別の意味で「『哲学とは何か』という問いを立てることができるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいておそらくほかにあるまい」(『哲学とは何か』河出書房新社、1997年)と言う。
ヘーゲルにとっては時間の真理は時間の否定(時間の〈終わり〉)だった。ドゥルーズの「…とは何か」という問いはヘーゲルと違って「具体的なもの」について語ることと関わっているが、それもまた専門性がものを見えなくするからだ。(『シラバス論』77頁)
2020年3月14日土曜日
三木清『人生論ノート』から(2) 「孤独について」を読んで
人は孤独を恐れる。孤独な人を哀れに思うし、孤独死を災いのように感じる。
一般に「孤独」という言葉によって人が思い浮かべるのは、周囲から切り離されて一人ぼっちな状態だろう。しかし、「孤独というのは独居のことではない」と三木はいう。独居や孤独死に表されるような一般通念としての孤独は三木の関心の範囲にはない。
彼が価値を認めるのは「より高い倫理的意義」をもつ孤独だ。そのような孤独は感情に属さず、むしろ知性に属すると三木は考える。
しかし、孤独とは感情に属するものではないのだろうか。知性に属する孤独と言われても、それがどういうものなのか簡単には想像がつかない。その意味を理解するヒントは、「真に主観的な感情は知性的である」という三木の言葉の中にある。
2020年3月7日土曜日
見えそうで見えない――予感の時
何かが見えそうで見えない時というのがある。身のまわりのあらゆる出来事が、何かのメッセージを隠しているように感じながら、その意味がつかめないようなときだ。突き詰めていけば何か新しい扉が開きそうな予感がある。しかし、それはまだ漠然と輪郭のない状態で虚空に漂っており、確かなものとして手の中につかむことができない。
今の私はまさにそのような状態だ。(神がかり的だといえばいえるが、スピリチュアルのくくりに閉じ込めないでほしい。このような予感は誰しもが生きていく過程で感じるものなのだから。恋愛に至るあのときめきにも通じる感覚だ。)
しかし、私にこのような思いを抱かせるものの正体は何だろう。
2020年2月24日月曜日
三木清『人生論ノート』から(1) 「感傷について」を読んで
三木清の『人生論ノート』が面白い。(恥ずかしながら、この年齢まで三木清の名もこのエッセー集の存在も知らなかった。高校入試関連の仕事をしていた友人によれば、試験問題でよく使われるそうなので、知らなかった私が無知なのだろう。)
このエッセー集は、著者が死、幸福、怒りなどのお題について考えを述べるという構成になっている。どのテーマも誰にでも通じる普遍的なものであり、文章の長さも手ごろなので、日常の隙間時間に思考するのにちょうどいい。三木清の哲学への入り口としてもうってつけだ。
この作品のなかから気に入った章を選んで紹介したい。
2020年2月11日火曜日
建国記念の日に――態勢の立て直し
2020年に入ってすでに一月経った。年頭に目標を決めて新しい年に突入したわけだけれど、例年同様、気がつくと目標のことはどこかに置き忘れたまま、その日一日をやり過ごすだけの日々が続いている。もちろん目標通りに行くわけがないことは最初から分かっていたことだけれど、それにしても自分の関心が次から次へと移って、昨日自分が何を考えていたかさえ思い出せないような状態だ。あまりにも移り気すぎるだろう。
目標を維持できないのは、その目標に必然性も拘束力もないからだと思う。自発的に決めた個人的な目標なので、なんの強制力もない。こういうことができたらいいなという願望を書き出したに過ぎない。しかも、その願望は時間とともに薄れる始末だ。
登録:
投稿 (Atom)
振り返り 12月27日(金)仕事納め
12月最後の金曜日の今日は仕事納め。 しかし、仕事納まってない。 12月後半は、締め切りが重なって怒涛の日々だった。しかも作業量の大きい案件ばかり。 そして締め切りラッシュは年明けまで続く。
-
12月最後の金曜日の今日は仕事納め。 しかし、仕事納まってない。 12月後半は、締め切りが重なって怒涛の日々だった。しかも作業量の大きい案件ばかり。 そして締め切りラッシュは年明けまで続く。
-
昨日の決心どおり、気持ちを切り替えて作業に集中できた。試験勉強をしていた時の生活に戻らないといけないのだと分かった。普通に生活しようとする限り、無理。明日から早朝に作業をすることにする。食生活も変えていきたい。 ひらめきマンガ教室の課題講評の動画が無料で公開されているという嬉し...
-
9月13日(金)からのアメリカ旅行、20日に無事帰国しました! 仕事も落ち着いてきたので、ぼちぼち旅行報告もしたいです。





