2020年11月20日金曜日

作り変えられる身体 抵抗する身体


仕事をする自分について考える。仕事が私を作っている。私がある物体に力を加えるとその物体も私に力を加えるように、私が仕事をするとき、仕事も私に働きかける。そのようにして仕事は私の身体を組み替える。物理界における作用・反作用の法則はここでも生きている。

人はその仕事によって規定される。学者は学者が考えるように考えて振る舞い、警官は警官が考えるように考えて振る舞う。そして、道路工事のおじさんは道路工事のおじさんが考えるように考えて振る舞う。面白いほどに人はその職業の枠組みに従った思考を持つ。社会に出たての何者でもない人間が仕事を始めるとき、彼・彼女はその仕事の洗礼を受ける。仕事を始めるということは一つの道を選ぶことだ。

私たちはどこかで何者でもない自由、つまり、何者にもなれる自由、を手放して一つの道を選ぶ。それは社会で生きていくために必要とされることであり、決して完全に自由な選択ではない。生まれることが自由な選択ではなかったのと同じように。

誰もその節理に逆らうことはできない。どこかで一つの仕事を選び、その仕事でやっていくと覚悟を決めなければいけない。覚悟を決めたら、その仕事によって作り変えられることを受けいれなくてはいけない。そうしない者は偽物だ。

2020年10月24日土曜日

独立した人間となるためにー読書猿ブログを読んで考えたこと

人は自分を肯定するために、自分が他人より優れていると考えることを必要とするようだ。優越感と劣等感は背中合わせで存在する。優越感を得るひとつの方法は、世間的に認められているいい学校に入り、世間的に認められているいい会社に就職することだろう。その会社の一員であるというだけで誇りが生じるし、他人からの尊敬も得られる。さらにいい会社であればあるほど、設備も整っており給料もいいので、日々優越感が煽られる。 

 女性であればいい結婚をすることによって同様の優越感を持つことができる。結婚は本来ステータスのためにするものではないが、結婚できたかできないか、結婚相手のステータスがどの程度かによる心理的作用は否定できないし、それが他人からの評価に影響を与えることも動かしようはない。 

 社会的ステータスがすべてでないと分かっていても、社会的ステータスのもつ影響力から自由になるのはなかなか難しい。 

 しかし、いい会社もいい結婚も、世間のすべての人に行きわたるほど無尽蔵に転がっているわけではない。それを運よくゲットできる人もいれば、あぶれる人もいる。世の中は不公平だ。そして、仮に運悪くあぶれた方に入ってしまった場合、優越感とは逆の感情に支配されることになる。自分とたいして変わらない実力の人が自分よりいい待遇を得て、人から尊敬され、楽しそうに生きていればなおさらだ。「何者かになりたい」という願望は、そのような鬱屈した思いから生じることが多い。人に無条件に好評価されるステータスを持たないからこそ、自分の力で人をあっと言わせたい、自分のことを認めさせたい、というどろどろした思いが胸の中でくすぶり続ける。 

2020年8月31日月曜日

偶然の上に立つ緊張感

 人がどのような家族に生まれ落ちるか、どのような教育を受け、どのような人と出会い、どのような仕事につくか、はすべて偶然だ。そこに努力の要素がないとは言わないが、その努力も偶然の範囲内のことだ。したがって、人が現在持っている地位や収入や資産は偶然の産物であって、そこには何の正当性もない。身分制のある社会で、貴族が多くの土地を持ち華やかな生活をできることが偶然に過ぎず何の正当性もないように、現在の日本社会で一流企業に入って多くの収入と安定した生活を得られることにも正当性はない。

現在の社会で、人がどこに生まれ、どのような教育を受け、どのような仕事に就くかが偶然の結果であったとしても、その偶然の結果として得られる処遇は大きく異なる。人は持てるものと持たざるものに振り分けられ、上に立つものと下にはいつくばるものが出てくる。そして、なぜあの人は私より持っているのだろうと互いに思う。しかし、ある人が恵まれた地位にあることに正当性がない以上、そこには常に緊張感がある。つまり、人は持つ者になった時、自分が他人より持っていることを正当化する根拠をなにも持たないまま、他人の視線にさらされ続けなければならない。人が同じ階層の人々の輪の中でつきあいたがるのは、そのような他者の視線に耐えられないからだとも言える。

2020年8月8日土曜日

コンプレックスは難しい

 コンプレックスというのは厄介なものだ。そもそもわざわざコンプレックスを感じたいと思っている人なんて一人もいない。気にしたくないのに気づいたら捕らわれているというのがコンプレックスだ。その存在は頑張る動機になることもあるけれど、物事の見方をゆがめ、関係の崩壊やチャンスの喪失やトラブルの誘因となることの方がはるかに多い。コンプレックスが全くない人なんてどこにもいないだろう。かくいう私もこれまでずっとコンプレックスに支配されて生きてきたし、未だに乗り越えられずに葛藤を続けている。

 そもそもなぜコンプレックスについて考え始めたかというと、最近読んだ本の中でコンプレックスの固まりのような二人の人物と続けざまに遭遇したからだ。一人はほしおさなえの『活版印刷三日月堂』シリーズ中のエピソード「チケットと昆布巻き」に登場する竹野明夫という雑誌編集者。もう一人はノンフィクション作家、星野博美の『転がる香港に苔は生えない』に登場する著者の友人の香港男性、阿強(あきょん)。この二人の人生について考えたい。残念ながらこの記事を最後まで読んでもコンプレックスを乗り越える方法は書いていない。でも、少しは希望を感じられるようになるかもしれない。

2020年7月30日木曜日

免許を取ることと仕事を習得することの意外な関係




 私は運転ができる人をそれだけで文句なく尊敬する。性格や頭のよさや社会的地位とはいっさい関係なく、運転ができるというだけでヒーローのようにかっこよく見えてしまう。自分のできないことをできる大人に憧れる子どものように、私は運転ができる人に憧れる。

 断っておくが、私だって運転免許は持っている。オートマ限定と普通二輪を。一時はヤマハのセローというマイバイクさえ持っていた。ただし一般道限定だったが。今はバイクも車も持っていない完璧なペーパードライバー。そもそも免許を取ったのも大学の授業終了後、就職まで暇だったからというお気楽な理由からに過ぎない。

2020年7月22日水曜日

散歩する自由


私の育った家は厳しい家だった。小学生のころの門限は5時で少しでも遅れるとドアに鍵がかけられ、家に入れてもらえなかった。高校にあがってからも、10時には帰宅していないといけないので、部活の打ち上げなどでも帰宅時間が気になって楽しめなかった。目が悪くなるからテレビもなかった。私が中学生になってからやっと、弟がいじめられないようにテレビを購入したが、その後も一日きっちり2時間しか見られなかったし、見る内容もチェックされた。お笑いも駄目、ドラマも駄目。見ていいのは漫画ぐらいだった。そのおかげでテレビを見る習慣がなくなってしまったのだが、私にテレビを禁止した親が今では、テレビを見ない、芸能人を知らないと私を非難するのだから腹が立つ。私がこのように育ったのは誰のせいなのか少しは考えてほしい。

2020年6月11日木曜日

緊急事態宣言解除後に感じる、何者でもない自由

 
 緊急事態宣言が解除されて地域の図書館が再開したので週末に行ってきた。図書館に行くというだけでうきうきした。もともと図書館という場所が好きなのだ。同じように図書館の再開を待ちわびていた多くの人が来館していた。本を借りてすぐ帰る人もいたけれど、ベンチで本を読みふけっている人も机で勉強している人もいた。館のなかを安堵感が流れていた。

 通路をぬって本を探しながら、自分がほっとしているのが分かった。それはなつかしい場所に帰ってきたという気分であり、周囲の目から解放される安心感だった。緊急事態宣言が解除されたからとは関係なく、小さい頃から図書館は私にとってそのような場所だったのだ。図書館で私は何者でもない自分でいられる。誰からも見られないでいられるし、誰からも何も問われないでいられる。そこでは私が何を考えているか、何をしているか、年収はいくらか、人にどれだけ好かれているか、といったことは問われない。

振り返り 12月27日(金)仕事納め

12月最後の金曜日の今日は仕事納め。 しかし、仕事納まってない。 12月後半は、締め切りが重なって怒涛の日々だった。しかも作業量の大きい案件ばかり。 そして締め切りラッシュは年明けまで続く。